Opinion : 日本の教育はここがおかしい (2001/1/15)
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例の「荒れる成人式」の報道に関して、「戦後教育の成果だ」などと書いているサイトがあった。
まあ、「戦後教育」の悪口をいう人はたくさんいるし、彼らにとっては現代の社会の「よくないこと」は、これ、すべて「戦後教育」の責任である、ということになってしまうらしいので、こういう論調が出てくること自体には驚かない。
ただ、平素に話題にのぼりやすい「歴史教育」だの「権利と義務」だの、最近話題になっている「奉仕活動」だのといったこととは別に、問題になる部分はいろいろあるのではないかと思う。今回は、その辺について考えてみたい。
そもそも、学校と社会の違いのひとつに、「正解が必ずあるかどうか」というものがある。
今の日本のシステムでは、基本的には学校では教師が教えることを丸暗記しておけば、それがそのまま「正解」になる。ところが、現実社会では何が正解か分からないことが多いし、ある時点で正解だったものが、いつのまにか間違いということにされてしまい、挙句にペナルティを課せられる、なんていうこともある。
学校で教える内容が「唯一絶対の正解である」という前提があるからこそ、右も左も学校教育の内容に自分たちの主張を反映させ、子供のうちから洗脳してしまおうとするわけだ。この点においては、自民党も社民党も共産党も同類である。
だから、たとえば「太平洋戦争は侵略戦争ではなかった」とか「南京大虐殺は虚構だ」といった主張を盛り込もうとする人もいるし、「戦争に関することはすべて目に触れさせないようにするべきだ」とか「日本の加害責任がうんぬん」といった内容ばかりを盛り込むように主張する人もいる。
だが、世の中のたいていの事象は見る人の立場によって見方が違うものだし、同じ人でも時間が経過すれば見方が変わるということはよくある。私自身も、そういう経験はたくさんある。
となれば、子供の頃に学校で習うことを「唯一絶対の正解」として丸暗記することに、いかほどの意味があるのだろうか。
むしろ、「立場によって、ひとつの物事にもいろいろな見方がある」ということを教えるべきではないのだろうか。
南京大虐殺にしてもホロコーストにしても、肯定する人もいれば否定する人もいる。それを、どちらが正しい、どちらが間違っている、と断定するのではなく、ひとつの事象についてさまざまな見方からの意見を集めて、その中から自分なりの考え方を見つけ出すような方向に持っていく、というのが、ひとつの教育のあり方ではないかと思うのだ。
それを、「ホロコーストを否定するサイトは教育上は良くないから見せない」といって遮断してしまうのは、果たして正解なのだろうか。疑問が残る。
(もっとも、何の説明もなく無条件で見せるのも問題だとは思うが)
これは、私が常々主張している「情報リテラシー」ということにも通じる。
インターネットなどを駆使すれば、大量の「生のデータ」を集めることができる。しかし、Web に書かれている情報がすべて真実だという保証はどこにもないし、相反する内容のデータが出てくることもある。
マスコミ報道にしても、「不偏不党」というのはあくまで建前で、実際にはそれぞれの立場の相違による見方の違いというものがあるのが実体だが、それを建前通りに「不偏不党」「中立公正」という前提で鵜呑みにすると、往々にして判断を誤る元になる。
それに、生のデータはあくまで生のデータでしかなく、それを分析・解釈して行動の基準となる「情報」の形にまとめるにはそれなりの経験が必要で、そういう能力は簡単には身に付かない。さまざまなデータに接して、その中から自分なりのモノの見方を涵養して「見識」を身に付けるのは、時間がかかるものなのだ。
いろいろな情報に接して経験を積み、自分で自分なりの答えを見つけて、それに従って行動する。そして、その結果については自分で責任を取る。ということを、一人一人が自覚するべきではないのだろうか。
現に、これまで「正解」とされてきたことが正解でなくなっているのが、最近の世の中だ。
我々の世代は「いい学校に行って、いい会社や役所に就職すれば、人生は安泰」と教えられて育ったものだが、「いい会社」のはずがボコボコ潰れたり外資に吸収されたり、「いい学校」を出て役所に入った優秀な (はずの) 人材が、税務署のウソツキ役人や外務省の横領役人のようになっているのが現実なのだ。教育制度のひずみは、こんなところにも現れているのではないのか。
もっとも、権力者の側からすれば、「自分で物事を判断する」ような国民はありがたくないだろう。権力者のいうことを鵜呑みにして、唯々諾々と従ってくれるのが「いい国民」ということになる。
だから、左右を問わず、どこの政党にしろ「自分で物事を考える能力を持たせる」なんていう政策をとる可能性は、極めて低いといわざるを得ない。困ったことだ。
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もうひとつ、現在の学校でおかしいと思うのが「5 段階相対評価」という制度だ。
相対評価制度の下では、「5」を取る生徒も「1」を取る生徒も、必ず一定の割合で存在することになる。
これの何が問題かというと、努力が結果にストレートにリンクしないのだ。自分がいくら努力しても、周囲が同じ程度の結果を挙げる限り、成績表に載る数字は変わらない。周りの連中の足を引っ張らないと、自分の成績が上がらないのだ。
こんな馬鹿な話があるものか。親や教師の多くがいう「頑張れば、必ずいい結果が出る」というのは、実際にはほとんど幻想なのだ。(「偏差値」というモノも、相対的な位置付けの指標であるという点においては、似たようなものである)
しかも、日本の教育関係者の一般的な考え方では (これはあくまで一般論なので、「いや、私は違う」という個人的な反論は御容赦いただきたい)、子供の「進路」は単線・一方通行型で、そこから外れたら「落ちこぼれ」のレッテルを貼られてしまうのだ。具体的には、先に書いた「いい学校に行って、いい会社や役所に就職すれば、人生は安泰」というレールに載っていないと評価されない、ということである。
しかも、その中で自分が努力するだけでなく他人の足を引っ張らないと、「安泰」なはずのゴールにたどり着かないという仕組みになっているのだ。一人一人の才能や得意分野はみんな違うはずなのに、これはどう見てもおかしい。
だから、この単線・一方通行のレールから「脱線」したら、それでもう人生はおしまいだという意識を本人は抱きがちだろうし、周囲もそう見てしまうだろう。それがどんなマイナスの影響を及ぼすだろうか。考えただけでもぞっとする。
もちろん、親の教育がなってないという事情もあるだろうが、こういう社会的背景も、子供が荒れて妙な事件を起こす一因ではないかと思うのだ。
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本来なら、読み書き算数のような最低限必要な基本的能力は全員一律に身に付けさせるとしても、そこから先は「自分は何が得意なのか」ということをいろいろ試行錯誤しながら自覚させ、個人がそれぞれ自分の得意な能力を伸ばすような方向に持っていくべきではないかと思う。
これは、先に書いた「自分で考える能力を身に付ける」ということにも通じる。今の日本の教育制度では、命令に従って動く「兵隊」は養成できるが、自分で考えて行動する「士官」が出てこない。これはまずい。
経済が右肩上がりで、「前例」に従って行動していれば済む時代には、いわれたとおりに動く兵隊だけでも、あまり不便はない。だが、参考になる「前例」が存在しなくなりつつあるこの時代に、自分で考えて行動できない人材ばかりがあふれ返ってしまったら、それこそ日本が沈没するというものだ。身の安全を考えるあまり「前例」がないと行動できないお役人など、とっととクビにしてしまえばよろしい。
あえて断言するが、学校で「奉仕活動」など義務付けても、将来の日本に役立つ人材は出てこない。「自分に何ができて、何ができないのか」をよく理解していて、自分の意志と判断基準を持って、自分の責任でチャレンジングに行動できる人材こそが必要なのではないのか。
もちろん、中には失敗する人もいるだろう。たとえば、フリーになって仕事をしている私の決断だって、将来振り返ってみたら正解だったかどうかわからない。
だが、「他人にいわれた通りにしていて失敗した」のと「自分の責任で行動して失敗した」のでは、意味に雲泥の差がある。無論、後者の方が有意義なものだ。
小手先の、しかも的外れな対策ではなく、「将来の日本にはどういう人材が必要なのか」という戦略的観点から、教育を考えてみようではないか。それができなければ、日本が経済的、あるいは政治的に沈没してしまったとしても、仕方ないと思う。
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