Opinion : 湾岸戦争 10 周年で思ったこと (2001/1/22)
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早いもので、湾岸戦争からもう 10 年も経ってしまった。
あのときには日本でも開戦の是非について議論百出で、「何が何でも戦争反対。経済制裁でフセインをクウェートから叩き出すことができる」という主張が少なからず見られたと記憶する。また、「戦争のテレビゲーム化」という批判が噴出したのも御存知のとおりだ。
だが、私にいわせれば、これらの批判は的外れもいいところではないかと思う。
だいたい、フセインはいまだに「勝利宣言」などと吹いているありさまなのだ。あのヒゲ親父の頭の中では、湾岸戦争は「負け戦」ではないらしい。事実を直視できないのだから困ったものだ。
今でもイラクに対する経済制裁は続いているわけだが、それでもフセイン政権は倒れていない。イラクの人民が病気や飢えで苦労しているであろうことは容易に想像がつくが、人民が苦労しても、肝心のフセインとその周辺が病気や飢えで苦労するはずがないのだから (これは北朝鮮の指導部にも共通している)、彼らとしては、政権を放棄する理由が立たないというものだ。
だいたい、人民が飢えたり病気で苦しんだりしているという理由で政権の座から自発的に降りた独裁者がいないというのは、歴史がすでに証明している。いや、独裁政権でなくても似たようなものだ (これは、太平洋戦争末期の日本のこと)。
結局のところ、選挙で負けて仕方なく政権を放棄するか、あるいは外部からの圧力がなければ、そういう益体もない政権でも、往々にして生き延びてしまうものなのである。
イラクの場合、湾岸戦争で自慢の軍隊がこてんぱんに粉砕されてもこのザマなのだから、イラクの強大な軍事力がそのまま維持された状態で、経済制裁だけでクウェートからフセインが手を引いたかといえば、これは疑問視せざるを得ないというのが正直なところだろう。
もちろん、何事にしろ戦争をしない方がいいに決まっているのは間違いないが、戦争をしない解決策が常に最善かというのは疑問だ。だいたい、湾岸危機についていえば、すでにフセインはクウェートに武力侵攻するという形で「戦争」を起こしているのだから、それに対するに「武力解決」というオプションを放棄するのは、敗北宣言と同義というものだ。それはつまり、フセインの武力侵攻を世界が認めるということになってしまう。
さらにいえば、経済制裁はむしろ、イラクの政権基盤を強めるのではないかという気もする。先に書いたように、経済制裁で苦労するのはイラクの人民であって、権力者ではない。つまり、フセインの立場からすれば、「経済制裁によって君たちは苦しんでいるのだ」というプロパガンダを国内向けに展開できるので、国民の不満を政権ではなく外国に向けるという情報操作が可能になる。
報道の自由が確保されている国ならば、そういうトンマな事態にはならないかもしれないが、イラクのような国では「官製情報」がすなわち、かの国の国内における真実になってしまうのだから、まったくもってタチが悪い。
これと同じことをやったのが、空爆下のユーゴスラビアにおけるミロシェビッチ政権である。自国出身のサッカー選手まで動員したプロパガンダというのは、あのときが初めてではないだろうか ?
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正直な話、湾岸戦争のときにイラク軍をもっと完璧に叩き潰しておけば、フセイン政権ももっと速く崩壊したかもしれない。もっとも、イラクの非戦闘員の被害が増大して、国際社会からの非難も増えたかもしれないが…
結局、「フセインは死ななきゃ治らない」ということなのだろう。経済制裁でフセインは死なない。となれば、経済制裁でケリがつくはずがない。
もうひとつの話題である「戦争のテレビゲーム化」批判だが、これは私にいわせれば、「批判のための批判」でしかない。とにかく戦争が始まってしまったので、何か批判する種が欲しいというところへきて、レーザー誘導爆弾がどんどん当たる画面がテレビで放映されたものだから、ああいうふざけた批判が出てきたわけだ。
だが、爆弾やミサイルを投下するパイロットが (半分盲撃ちとはいえ) 熾烈な対空砲火の中をくぐって飛んでいるという事実に気付いていた人が、果たしてどれだけいるだろう。また、地上戦でも米軍の戦車にイラクの兵隊がよじ登ってきて、接近戦の撃ち合いを夜中に砂漠でやっていたということを聞いている人が、果たしてどれだけいるだろう。
そういう話を聞いても、それでもまだ「テレビゲーム」といえるものだろうか。
正直な話、テレビのニュースだけ見て、的外れな「批判のための批判」をする前に、砂漠で戦った当事者が書いたものを読んでみた方がいいのではないか、といいたくもなる。それでも、自分で体験するのに比べれば大したことはないと思うが、現場にいた人が書いたものを読めば、少しは認識が変わろうというものだ。
別に、批判するのは御自由だが、あまりにも的外れな批判になると、こちらとしても聞く耳を持ちたくなくなってしまう。私が過去に体験した「厚木基地騒音訴訟関係者の発言封じ (?)」事件もそうだが、こういうことばかりやっていると、反戦運動、あるいは平和運動全体のイメージ・ダウンにつながるということを考えてみた方が良いのではないだろうか。それは決して、人類全体にとっても利益にならないと思う。
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