Opinion : 痘痕は痘痕 (2001/3/19)
 

私がよくいう台詞のひとつに、「Macintosh は宗教だ」というのがある。

パソコン歴の長い人なら、一度や二度は「Macintosh と Windows のどちらが優れているか」という不毛な論争に巻き込まれたり、あるいは自ら加担したことがあるだろう。
どちらも使っている私にいわせれば、「それぞれ長所も短所もある」という結論になるのだが、中にはどちらか一方が優れていて、他方はカスであるかのようなことを主張する人がいる。それも、どちらかというと Macintosh ユーザーに多い。

そこで、「Macintosh のここが優れている」と主張するならまだしも、「Macintosh は Macintosh だから優れているのだ」という感じの主張に走る人も中にはいるわけで、こうなると、もや「宗教」の領域であり、議論そのものが成立しない。論者の中では、結論は最初から決まっているのだから。

そうなると、Macintosh に関するいいニュースは盛大にふれて回り、不利なニュースについては聞かなかったふりをする、という態度に出る人も出てくる。たとえば、某雑誌で Macintosh について書いている某氏の論説のごときは、まるでアップルの「大本営発表」のようだ。

(ちなみに、「Macintosh」という文字列を「Linux」や「Palm」に置き換えても、同じ現象が起きるかもしれない)


まあ、パソコンの OS 程度のことで論争する分には可愛いものだが、これが笑ってばかりもいられないケースもよくある。

典型的な事例を挙げると、「南京大虐殺の有無」「日本の朝鮮支配の是非」「太平洋戦争は侵略か否か」「大和とアイオワ級はどちらが強いか」「零戦と F4F はどちらが強いか」などなど、すぐにこの程度は思いつく。

だいたい、この手の論争をおっぱじめる人というのは、どちらか一方の立場に立脚して議論をすることが多いから、「現実を検証して物事を論じる」というよりは、「自分の主張に都合のいい事象を集めて悦に入っている」という気配が、なくもないのではないだろうか。

そうなると、それはもはや「議論」ではない。それぞれの主張で、いかにして相手を圧倒するかという「ディベート」の領域になってしまう。

以前にも書いたことがあったと思うが、過去の歴史をいろいろ当たってみれば、どんな主張にとっても都合のいい事実の一つや二つ、出てくるものだ。そして、それぞれの論者が自分に都合のいい話だけを論拠として取り上げていたら、議論が噛み合う訳がない。否、議論になるわけがない。

この手の論争を見るときには、そういう背景も考慮に入れる必要があるのではないだろうか。


いつも思うのだが、特定の製品やテクノロジー、あるいは歴史に対する見方に対して、「盲目的」とでもいうべき視点に陥ることが、果たしていい結果を生むのだろうかと思う。

たとえば、最初に引き合いに出した「Macintosh 信者」を例に取ると、「Macintosh は素晴らしい」という思い入れが、結果として、存在するかもしれない欠点や改良すべき点に対する、厳しい目を曇らせてしまうことはないのだろうか。もしそうなれば、本人の願望とは裏腹に、製品の発展を阻害する結果になってしまうという点に気付いているのだろうか。

歴史認識についても同じことがいえる。
自分の国のことを悪くいうより、よくいう方が耳当たりがいいのは間違いない。それに、中国や北朝鮮が、「過去の歴史」をダシにした「ゆすりたかり外交」を展開しているとあっては、なおさらだ。

だから、ついついそういう意見になびいてしまいたくなる気持ちが生じるのは否めないが、そういう意見に盲従することが、自分の国に対していいことなのだろうか。少なくとも、「検証すべきは検証する」という立場を捨てるべきではないと思うのだが。

よく「痘痕も笑窪」という言葉が出てくることがあるが、どういい繕っても、痘痕は所詮、痘痕である。そのことを否定することはできない。
自分の願望を正当化するのに都合のいい話だけを集めて「精神的遮断機」の中に閉じこもるのは、長期的には、むしろ悪い結果をもたらすのではないかと思う。そのことに、誰もが早く気付いてほしいものだ。

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