Opinion : "改憲問題" を考える (2001/5/7)
 

「不定期日記」でも少し触れたが、毎年のように、5 月 3 日の「憲法記念日」がやってくるたびに、社民党や共産党は「改憲反対」とわめき、自民党や右翼団体は「改憲を」とわめく。

たまたま、拙宅は幹線道路に面しているので、「共産党が政権を取れば日本が変わる」とわめく共産党の街宣車の騒音には辟易させられたが、別の場所では、右翼団体の街宣車に辟易させられた人もいたことだろう。

かと思えば、民主党みたいに左右が入り乱れた寄り合い所帯だと、ある人が「改憲を」といえば、別の人が「いや、護憲だ」と横槍を入れて、仲間割れしている。こんな調子で、政権奪取などできるハズがない。

いつも書いているように、どんな内容でも主張してよいのが民主主義社会のいいところだから、改憲論を主張するのも、護憲論を主張するのも、それは当事者の自由だ。どちらか一方の発言だけを封じるようなことは、してはいけない。

ただ、左右どちらをとっても、いささか短絡的で、かつ視野の狭い主張がなされているように思えるところに、ひっかかりを覚える。


特に気になって仕方がないのが、どちらの陣営も「憲法 9 条」にこだわりすぎている、という点だ。

この条項が、日本側の発意であるにせよ、GHQ 側の発意であるにせよ、どちらにしても、日本が (追い込まれたからとはいえ、やけくそになって) 太平洋戦争を引き起こした点を反省して、同じことを繰り返させないように、この条項を入れたという点については、あまり異論はないと思う。

もちろん、戦乱が続くよりも、平和な世の中が続く方がいいに決まっている。ただ、その「平和」を、どうすれば確保し、そして維持できるか、という点に関して、特に「護憲」陣営の言い分には、無理があるように思えるのだ。

戦争というのは、話し合いで解決するのに失敗したり、あるいは話し合いで解決するという「悠長な」やり方を好まない人が「面倒くさい、叩っ切れ」といって始めるものだ。となると、一方の陣営が戦争を望まなくても、他方の陣営が「戦争だ」といえば、相手は自動的に戦争に巻き込まれてしまう。これが国際政治の常だ。

つまり、平和というのは絶対的な概念ではなくて相対的な概念だから、どこかの国が「平和を希望します」といっていても、それだけで平和が維持できるというものではない。

これを現実社会に当てはめれば、日本が「永久平和」を希求するのは結構だが、そういう「念仏」を唱えるだけでは、日本が平和な状態でいられるという保証は得られないということになる。日本の御近所に「戦争大好き」の独裁指導者がいたり、何かというと武力を持って近隣諸国を恫喝するような国があったり、話し合うのは面倒だといって武装テロに走って神経ガスをばら撒くようなアホがいれば、平和でいられなくなる可能性は高くなる。

もちろん、世界のすべての人が同時に「平和主義」を受け入れて、一斉に武装を放棄すれば、かような「念仏平和主義」も現実味を帯びるかもしれないが、現実には、それはちょっとできない相談ではなかろうか。


では、改憲論者が主張するように、日本が再武装して強大な軍事力を保持するというオプションはどうか。

これはこれで、政治的に失うものが、あまりにも大きい。ただでさえ、太平洋戦争という侵略行為を仕出かした過去のある日本が、再び「大日本帝国」時代に匹敵するような軍事力を保持した日には、東南アジア諸国も黙っていないだろう。その結果として、たとえば日本のシーレーンを封鎖されるようなことになっては、薮蛇もいいところだ。

そう考えると、私が常々主張しているように、日本固有の軍事力のレベルはある程度抑えておき、他の国とアライアンスを組むことで、地域のバランス・オブ・パワーを安定させるというのが、ベストと考えられる。そのパートナーとしては、日本と経済的結びつきが強いアメリカ合衆国こそが、ベストかどうかはともかく、ベターなチョイスであろう。

たとえばの話、日本と中国がアライアンスを組んでアメリカに対抗するようなことになれば、日米間の貿易に大きな支障をきたすのは間違いなく、それは日本経済の首を締めることになる。アメリカを敵に回せば、日本のシーレーンは再び遮断され、太平洋戦争の二の舞になりかねない。そう考えるだけで、アメリカを敵に回すことの愚は明らかだ。

言い方は悪いが、アメリカが東アジアにおいて政治的・軍事的プレゼンスを保持するという戦略を保持しているのであれば、日本の安全保障と地域のバランス・オブ・パワーの安定を図るために、その戦略を拝借するということになる。これが、もっともリスクの少ないチョイスであるのは間違いない。

だが、そうなると、「集団的安全保障」が障碍になる。どこであれ、他国とアライアンスを組んで軍事バランスを維持するというのは、レッキとした「集団的安全保障」だからだ。だが、現状を見る限り、「自力安全保障」よりも「集団的安全保障」の方がリスクが少ないのは自明の理である。
かような、現実の状況を見据えた考えをせずに、単に「憲法 9 条にあるから集団的安全保障は反対」とか「集団的安全保障を認める改憲は反対」と主張するのは、思考停止の指摘を免れ得ないだろう。

個人的な意見だが、「同盟国とのアライアンスによる集団的安全保障」を認める代わりに、日本の軍事力行使の範囲を限定し、無制限に世界各地に引っ張り出されることがないようにタガをはめる、というのが、現実的に見たベストなソリューションではないかと考えていることを申し添えておきたい。


ここでは論議の多い「安全保障」を引き合いに出したが、要は「憲法は神聖にしておかすべからず」といって、一度決めた憲法の条文はビタ 1 ビットたりとも変えてはならない、という主張は、いささか石頭過ぎるのではないか、と申し上げたいのだ。
(だいたい、こういっては何だが、現行憲法の歴史はたかだか 60 年程度のものなのだ)

憲法というのは、早い話が「国の生き方の規範」を定めたものだ。どの国も単独で生きていけるものではないのだから、「国の生き方」というのは絶対的に決まるものではなく、周囲の状況に合わせて相対的に決まる。
そう考えれば、何も安全保障に限定することなく、憲法のあらゆる条文にわたって「これからの世界の中で、日本の生き方はどうあるべきか、それに相応しい憲法とはいかなる内容のものか」ということを、日本の朝野を挙げて徹底的に議論することは、決して無駄にならないハズだ。

少なくとも、一部の政治家などが個人的な考えだけで、身勝手に憲法の内容を書き換えるのに比べれば、朝野を挙げて喧喧囂囂の大論争をする方が、まだしも健全というものだろう。

たとえば、森・元総理が、独断で憲法第 1 条を「日本は天皇を中心とした神の国である」と勝手に書き換えるという事態 (爆) を想像してみればよろしい。
それなら、結果がたとえ同じであっても、国民的議論の末に書き換えられる方が、プロセスとしてはマシである。

その結果として、現行の憲法を維持するもよし、部分的に修正するもよし、全面的に書き換えるもよし。
ただし、あまり自分勝手な内容に改憲してしまえば、同盟国や周囲の国から反発を買って、結果的に国を滅ぼす可能性もある。そこのところをキチンと考えて、どういう憲法の下で我々は暮らしていくべきなのかということを、誰もが自由に参加できる場でオープンに論じる空気を作ることが、今こそ必要なのではないのか。

たとえば「9 条を維持すべし」というのもひとつの立派な意見だが、それにこだわるあまり、憲法改正をいいだすどころか憲法改正について論じることさえも封じ込めてしまうのは、「自分の気に入らない意見は抹殺してよろしい」という、極めて非民主主義的な主張だと思う。そういう主張をする政党が、別のところでは「民主主義を守り続けてきた政党です」などと調子のいい主張をしても、それは到底受け入れがたい。

こういう重要な問題は、無関心というのがもっとも良くない。とにかく、誰もがこの問題に関心を持ち、改憲論者も護憲論者も、まずは同じテーブルについて将来の日本のあり方を考える。いわば「論憲」ということを、少しは考えてみるべきではないのだろうか。

Contents
HOME
Works
Diary
Defence News
Opinion
About

| 記事一覧に戻る | HOME に戻る |