Opinion : 環境に優しければ偉いのか !? (2001/7/23)
 

世の中には、「これを持ち出したら泣く子も黙る」という、水戸黄門の印籠のようなお題目がいくつかあるが、その極め付けが、近年では「環境」ではないだろうか。

確かに、19〜20 世紀を通じた工業化の過程において、公害問題をはじめとするさまざまな環境問題が現出してきたのは事実だ。ただ、その反動なのか何なのか、「環境」を錦の御旗に掲げさえすれば、何をいっても許される、という風潮があるように思えてならない。


いい例が、今回のサミットでもモメにモメた「京都議定書」の一件だ。この件に限らず、たいてい「環境」という看板が付く問題では、ヨーロッパ勢が積極的で、アメリカはやや消極的、日本はその中間、中国あたりは気にもしない、という傾向があるようだ。

そうなると、「環境に良いことは正しいことだ」という観点から動くマスコミや環境保護団体は、自動的に「環境問題に熱心なヨーロッパ勢は偉い、環境問題に不熱心なアメリカは怪しからん」というステレオタイプに走る。サミット関連報道でも、そんな空気を感じる。

もちろん、環境に悪いことをするよりいいことをする方が良いに決まっているが、問題はその方法と基準の作り方だ。そこで、恣意が入り込む余地は十分にある。

たとえば、「京都議定書」では 1990 年頃の CO2 排出量が規制の基準値とされている。だが、1985 年でもなく 1995 年でもなく、1990 年を基準に選定したのは、どういう根拠があってのことなのだろうか ?
また、どこを基準に設定するにしろ、「○○年の水準に」という相対的な規制の方法が、はたして妥当なものなのだろうか ?

基本的な傾向として、温室効果ガスの排出量は経済活動の規模に比例するだろうから、景気がいい年を基準にすれば基準はゆるくなるし、景気が悪い年を基準にすれば基準は厳しくなる。国によって景気の良し悪しには温度差があるから、何年を基準にするかによって、国ごと・地域ごとの有利・不利が生じるのは避けられない。
こんな「温室効果ガス規制」のやり方が、はたして妥当なものなのだろうか ?

学校の成績もそうだが、環境問題という「絶対的」な指標を要する問題を、「○○年を基準に」という相対的な指標で規制すること自体が、間違っているような気がする。規制するなら、国民一人あたりナンボ、あるいは GNP いくらあたりナンボ、というような、絶対的な指標を取り入れなければ意味がないのではないか。

となると、「1990 年」という基準年を既定した「京都議定書」そのものが、日米の経済活動を環境面から縛り、相対的にヨーロッパの経済競争力を高めようとする EU 側の陰謀ではないか、という疑念が芽生えてきても不思議ではない。


似たような話は、「環境」の他にもある。典型例が「人権」だろう。

「人権」というと、何かと槍玉に上がるのが中国と北朝鮮、イラクあたりだ。実際、こうした一党独裁国家では、往々にして国民の人権が犠牲になっている。それは間違いなかろう。

ただ、アメリカやヨーロッパ諸国が「人権」をダシにしてどこかの国を叩くとき、本当に「人権保護」の観点から叩いているのか、それとも、別の件で叩きたいのだが、それを表に出すと具合が悪いので「人権」を隠れ蓑に使っているのか、そこのところの見極めが必要だ。

極端な話、「平和」だって同じだ。最近、アメリカのミサイル防衛計画に対して「軍拡を招く」という批判があるが、見方によっては戦略核戦力や弾道ミサイルの無力化は軍縮になるといえなくもない。それを、特に中国・ロシアあたりが「軍拡になる」といって騒ぐのは、単なる牽制行為と見るべきだろう。

だいたい、自分のところが 200 万人からの軍隊を抱えて近隣諸国を威圧しておいて、他国を「軍拡だ」といって非難する中国は、相当にお調子者である。

このように、一見したところは正論をいっているように見える主張の裏には、実はさまざまな利害や思惑がうごめいていることが多い、というのが現実だろう。
ただ、そのことだけを非難してみても始まらない。

それぞれ異なる「お家の事情」を抱えた複数の国家があれば、それぞれの間で利害の対立が発生するのは避けられない。
そうした状況の中で、少しでも有利にコトを運ぼうとして「環境」でも「人権」でも「平和」でも、使えそうなものは何でもダシに使うというのは、どこの国でも程度の差はあれ「お互い様」なのだ。

むしろ問題なのは、そこで単純にステレオタイプで物事を断じてしまう、マスコミや各種活動家ではないか。某環境テロ団体がいい例だが、環境保護のためなら何をやってもいい、というものでもなかろう。

さらに噴飯モノなのは、「環境保護」を訴える団体や政党が、渋滞している市街地でクルマを走らせて、ラウドスピーカーでがなりたてていたりすることだ。それだって一種の「環境問題」だろう。
あるいは、かなり以前に「二酸化炭素排出削減」を求めて首相のもとに陳情に訪れた団体があったが、彼らが交通手段に何を使ったか、なんていう問題もある。自転車や徒歩なら誉められるが、タクシーや自家用車で出向いたのだとしたら、もう笑うしかない。

重要なのは、たとえば今回のように「環境問題に熱心な国や地域」と「環境問題に不熱心な国や地域」があるように見受けられた場合に、その背景に何があるのか、どういう思惑でそういう主張をするに至ったのか、といったところまで含めて、礼賛、あるいは批判の対象にすべきだ、ということだ。
自称「正義の味方」であるマスコミにしても、そこまでやってこそ、給料分の仕事をしたといえると思うのだが。

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