Opinion : 国立戦没者メモリアルを作ろう (2001/8/13)
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毎年の恒例行事で、今年もまた、「首相の靖国参拝」が議論になっている。まったく、毎年のように変わり映えのしない不毛な議論 (ともいえないか) が永田町で展開され、そこに中国や韓国が横槍を入れるという変化のない構図にはウンザリするが、今回はその辺の事情について考えてみよう。
そもそも、「靖国問題」というのは単一の問題ではなくて、複数の問題の集合体であると思う。そのことが、ますます話をややこしくしている。整理をすると、この件をめぐって問題になるのは、おおむね以下のような点ではないか。
「靖国神社」という宗教施設に、総理や閣僚が公人として参拝することと、憲法に定められている「政教分離」との関連
靖国神社に、いわゆる「A 級戦犯」がまつられていることの是非
戦没者に対する追悼意思の示し方
話をややこしくしてしまっているのは、「戦没者に対する追悼」という名目を使って靖国神社に政治家が参拝し、そこにはすでに「A 級戦犯」と呼ばれる人たちがまつられてしまっている、ということだ。
今回は「東京裁判」の是非については問わないので、「A 級戦犯」の件については触れないが、私個人としては、戦争を開始するという決断を下した人が、その結果として生じたことに対して何らかの責任を問われるのは当然のことだと考えている。
ただし、それを戦勝国が裁くか、その国の当事者が裁くかという点については議論の余地があるが、果たして日本人にその資格があるかどうかとなると、疑問がある。
ともあれ、まずは「政教分離」について考えてみたい。
はっきりいってしまえば、「靖国神社」はレッキとした宗教施設だから、それに対して国が直接的に関与したり、国費を使ってさまざまな費用を支出するのは政教分離に反するといわれても仕方がない。
笑ってしまうのは、連立与党を構成する公明党が靖国参拝に反対していることだが、その公明党こそ「政教分離」から最も遠いところにいる政党ではないか。公明党は相手が靖国神社だから反対するが、きっと「創価平和ナンタラ会館」に総理が訪れるという話なら大歓迎するだろう。公明党のいうことは、せいぜいその程度のものだ。
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閑話休題。
「政教分離」というと、しばしばアメリカの「アーリントン国立墓地 (Arlington Cemetery)」を引き合いに出して、「日本の方がアメリカよりも政教分離が進んでいる」という主張を展開する向きがある。
だが、手元の「旺文社 英和中辞典」を見てみても、cemetery という単語には「(教会に付属しない) 共同墓地、埋葬地」としか書いておらず、cemetery が何らかの宗教施設を意味するという記述は存在しない。
つまり、アーリントンについていえば、あれは「共同墓地」という場所に過ぎず、そこで行われる各種のセレモニーが、故人の信仰に則って何らかの宗教をベースにして行われている、という解釈が正しいのではないかと思う。
それに対し、「靖国神社」とは、場所そのものがレッキとした宗教施設である。そこがアーリントン墓地と違う。その点を指摘しておきたい。
アメリカの大統領は聖書の上に手を置いて宣誓するのが通例だが、歴代大統領の中にはそれをしなかった人もいたと聞いた記憶があるし、そもそも戦没者追悼とは別の問題だから、ここでは触れないことにする。
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次の問題は、「戦没者に対する追悼の意思表明」という件だ。
これについては、太平洋戦争がどういう目的で行われたかということとは無関係に、必要なことだと思う。
しばしば私が書いてきていることだが、国家指導部が戦争をするという命令を下すことと、その命令に従って国民が戦地に赴くことは、別の問題だ。徴兵されて、軍人として戦地に赴いた個々の兵士に命令の内容を選り好みする余地はないし、どんな馬鹿な命令でも、下された命令には従わなければならない。そうしなければ、軍隊の指揮・統制は崩壊する。
だから、太平洋戦争でもベトナム戦争でも、命令に従って戦地に赴き、戦死、あるいは負傷した兵士個人を責めてみても、何の足しにもならない。馬鹿な戦争をしたという批判は、その戦争を開始する命令を下した国家指導部が負うべきもので、個々の兵士の責任問題ではない。
そういう考え方に立脚して、戦没者に対する追悼を行うという点については、私は全面的に肯定する。ある意味、彼等も被害者だといえるわけだし、国のため… というよりは、自分の家族や郷土を守りたいという一心で命を投げ出したことを、いったい誰が責められようか。
しつこいようだが、太平洋戦争が侵略戦争であったかどうかというのは、それとは別の問題だ (ちなみに私は侵略戦争という見解を取ることを付言しておく)。
というわけで、解決策として、「宗教施設」ではない「戦没者追悼のためのメモリアル」を作ることを提案したい。
あまり日本では知られていないが、ワシントン DC に行くと、ベトナム戦争や朝鮮戦争の戦死者を追悼するためのメモリアルが、モールの一角に設けられている。ベトナム戦争のメモリアルには、戦死者の名前が刻み付けられた巨大な石碑 (というのだろうか ?) があるのは、ガイドブックなどで見たことがある人もいるのではないか。
あれと同じ考え方で、日本でも国費を投じて、東京都心の一等地、たとえば皇居前広場あたりに、過去すべての対外戦争で亡くなった人を追悼するメモリアルを作ってみてはどうだろう。繰り返すが、「神社」ではない。「メモリアル」である。
そもそも、事情はどうあれ、戦死者を神社にまつって「神様」にしてしまうというのは、個人的にはどうかと思う。少なくとも「政教分離」の考え方にはそぐわない。
いったん「神様」にしてしまったものを「戦没者メモリアル」に移すなんていうと、また日本遺族会あたりがブーブーいいそうだが、靖国参拝でゴタゴタし、それを中国なんかが「日本たたき」の材料に利用するというワンパターンを繰り返すよりは、よほど建設的な考え方ではないかと思うのだが、どんなものだろう。
要は、「戦死者が国や家族のために生命を投げ出した」という事実を我々が大事にして、同じ失敗を二度と繰り返さないための記念碑としてメモリアルを作る、ということなら、文句をいう人も少なくなると思うのだが。
そして、政治家や日本を訪問する外国の要人には、必ずそこを訪問してもらえばよい。そこでどういう形を用いて追悼の意思を示すかは、参加する個人の意志に任せて、仏式だろうが神式だろうが、はたまたキリスト教式だろうが、何でも好きにさせればよいではないか。「信仰の自由」というのは、そういうものだ。
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