Opinion : 批判なくして発展なし (2001/9/10)
 

先週の話とコンセプトが似ていなくもないが、先週の話は「内的」な話で、今週は「外的」な話ということで、ご勘弁を。

先日、ある Linux 専門誌からの依頼で、「Linux 上で動作するオフィス製品」に関するレビュー記事を書いた。件の記事の掲載誌は、近く発売になる予定だ。

記事を書くために製品を使ってみると、確かにカタログ上の機能一覧では Microsoft Office とタイマン勝負ができそうなレベルに達しているのだが、なんとなく使い勝手に違和感を感じることが多かった。単に「Microsoft Office と勝手が違う」というのではなくて、なんだか気配りが足りない感じがしたのだ。
さすがに「ASIMO に対する先行者ほど追いついてない」というのは言い過ぎだが、ユーザビリティの面で遅れを感じたのは事実なので、そういう内容の原稿を書いた。

ただ、原稿の依頼があったのは Linux 専門誌だから、そんな批判的な内容の記事を書いたら編集サイドから書き直しの依頼が来ないかと、本気で心配したのも事実だ。実際にゲラが上がってきてみたら、元の原稿以上にトーンが厳しくなっていたので、杞憂に終わったのだが。


いろいろな雑誌や Web の記事を見ていると、Linux や Macintosh 関連の記事というのは、他と比較すると「礼賛物」が多いという印象を受ける。典型例がこちらの記事だが、似たようなトーンの記事は、他にもたくさんありそうだ。

もっとも、「礼賛記事」で埋め尽くされているという点では Macintosh 専門誌や Macintosh 専門サイトの方が、より顕著といえる。その極め付けが、「ASCII」誌で連載されている、アップルに関する某氏のコラムといえる。
ときどきいわれるように、アップルが「言論統制」をやっているのかどうかは知らないが、そんなことしなくても、発行元も書き手も Macintosh に入れ込んでいる面子が揃っているのだから、何もしなくたって礼賛記事のオン・パレードになるだろう。

ところが皮肉なもので、Linux 専門誌なんかを見ていると今にも Windows に取って代わることが可能なように書かれているデスクトップ OS 市場で、Linux が流行る気配は全然ないし、それどころか、デスクトップとサーバのどちらを重視するかで大論争をやっていたりする。Macintosh にしても、iMac 登場で復活したかのように見えたが、最近はあまり元気がないように見える。

反対に、なんだかんだとコキ下ろされつつも、Windows はしっかり流行っている。新しい OS やアプリケーションが出る度に「急いでバージョンアップしなくていい」という記事が出るのはお約束だが、それにもかかわらず、いつのまにかユーザーは増え、書店に並ぶ書籍や雑誌は新バージョンのものに世代交代してしまう。おかしな話だ。

マイクロソフトというのは「叩かれれば叩かれるほど強くなる」あるいは「強大なライバルが出現するほど強くなる」という面白い会社だが、よくよく考えてみると、叩かれるから強くなる、という方が正解かもしれない。理由はこうだ。

セキュリティ ホールでも使い勝手でも、はたまた機能強化でも、MS 製品については、礼賛する人もいればコキ下ろす人もいる。中には「コキ下ろすためにコキ下ろす」という「目的と手段を混同した人」も少なくないが、中には真摯な批判だって含まれているだろう。そういう声がドンドコ出てくるから、メーカーも、批判に対する改善策を必死になって考える。

もし、これが礼賛記事ばかりだったとしたら、どうなるだろう。たとえば、新製品を出す度に礼賛議事ばかりが出回ったのでは、その中に何らかの欠点、あるいは改善を要する点が内包されていても、それが見過ごされてしまうことにならないだろうか。

もちろん、メーカーの人間が自分で改善点を見つけ出すことだって重要だが、作り手が無意識のうちに見過ごしてしまっているちょっとした問題点なんていうのは、エンド・ユーザーの方が気付きやすいのではないかと思う。世の中が礼賛記事で埋め尽くされてしまうということは、そうした貴重な視点を切り捨てることになる。


先週のコラムで、「成功しか知らない人や組織よりも、失敗経験がある人や組織の方が強い」という趣旨のことを書いた。それともつながる話だが、失敗したり、あるいは良かれと思って的外れなことをしたりして叩かれた経験がある方が、そうした経験を後で生かすことができる分だけ、失敗したことも批判されたこともないライバルよりも、むしろ強みを発揮するのではないだろうか。

いいかえれば、(度を過ぎて) 熱心なファンや愛好者に支えられていて、何かするたびに自動的に礼賛されるような組織や商品は、見方によっては、貴重なインプルーブの機会を逃していることになるのではないか。それは一種の「裸の王様」状態といえるからだ。

太平洋戦争のときに、日本側では「アメリカのような民主主義国家は国家総動員体制を形成することができないだろう」と希望的観測をしていたら、それが大外れだったという史実がある。
その一因として、自由にさまざまな立場から物が言える民主主義体制の方が、戦争に勝つために必要な改善を見つけ出すためのきっかけを得やすかった、という推測は、間違っているだろうか ? トップのいうことに部下が唯々諾々と従うだけという体制よりも、「いや、それはヘンだ。こっちの方が正しい」と異論が出てくる方が、間違いの修正がしやすいのではないだろうか ?

そう考えると、本当に強い企業や組織というのは、情報がガラス張りになっていて、賛成・反対ともに自由に発言できて、トップの側にも批判に耳を傾けるだけの雅量が備わっている… そういう体質の持ち主なのではないだろうか。それは、対象が国家でも同じことだろうが。


最近、外務省の不祥事が多い。これも、外務省のお役人が偉くなりすぎて、誰も彼らの行状を批判しなくなったり、あるいは批判することを怖れてしまっているからではないかという気がしている。誰も文句をいう人がいなければ、公金横領のような脱線行為が発生しても、それに対するブレーキが効きにくい。
かくして、数々の不祥事で判明したように、「公僕」ならぬ「公賊」がゾロゾロとお縄になるという醜態をさらすことになる。

これだから、外務省のことを「害無能省」なんていう人が出てくるのだ。あんな連中にたからせるために、我々は貴重な収入の中から税金を払っているのではない。

こうした考え方に立脚すると、批判する人が誰もいない、あるいは批判することが許されないという状況になった人、商品、企業、組織、そして国家は、将来的には沈没する可能性が高いという考え方が導き出される。独裁国家の体制が往々にして長続きしない理由も、その辺にあるのではないだろうか。

どちらが正しいかどうかは別にして、左右両派が「正しい」「いや、正しくない」とやりあっている教科書問題なんかは、そういう意味ではまだしも健全なうちに入るのではないかと思う。もし、どちらかの意見に「言論統制」するような動きが国家レベルで出てきたら、危険信号だ。

自分が「文句をいう側」にいるときだけでなく、「文句をいわれる側」に回った場合にも、安易な言論統制に走らないように注意したいものだ。それは最終的に、自分の首を絞めることになるだろうから。

Contents
HOME
Works
Diary
Defence News
Opinion
About

| 記事一覧に戻る | HOME に戻る |