Opinion : 不審船事件と対テロ戦争をめぐる雑感 (2001/12/29)
 

例の不審船事件で、海上保安庁の巡視船が発砲したことが、内外で話題になっている。ちょうど「同時多発テロ」の余波もあってか、国内でも比較的好意的に受け止めている向きが多いようだ。

ただ、法的に見ると疑義が残るという指摘もある。
ここで問題なのは、「法律違反だから銃撃したことに問題がある」と考えるか、それとも「こういう場面で銃撃できないと規定した法律そのものに問題はないか」と考えるか、ということではないか。

「憲法第九条」の問題もそうなのだが、一度決まったものは何が何でも変えてはいけない、というのは、一種の思考停止だと思う。もっとも、逆にコロコロ変えてしまうのも問題だが、法律を時代に合わせて変えることの正当性を判断するために、国民によって選出されたメンバーで構成される、立法府たる国会の存在意義があるはずだ。
国会がいいといったことは、すなわち国民の代表がいいといったに等しい。もし国会の判断が間違っていたら、そういう代表を選ぶ決定を下した国民の責任でもある。それが民主主義というものだろう。

だからこそ、国会議員の皆さんは、自分の地元や支持団体にカネを落とすことばかり考えず、たまには大局的見地から物事を考えてもらいたいと思うのである。そのために高い給料をもらっているのだから。

それはさておき。
「同時多発テロ事件」とそれに続く「対テロ戦争」で、「冷戦終結で世界は平和に」という幻想が木っ端微塵に打ち砕かれたのは当然だが、それとタイミングを合わせるかのように日本近海でもこういう事件が起きたところに、なにやら象徴的なものを感じる。


冷戦、というより、産業革命以降の大きな戦争に共通することかもしれないが、「戦争」とは「国家と国家の意思のぶつかり合いを武力で解決すること」と考えられていた。

しかし、今回の「対テロ戦争」は、「国家対国家」という図式では描ききれない。むしろ、国家が自らに武力で楯突く、「人民の海」に隠れた無法者と争うという図式だ。一方の当事者が「国家」というまとまりを持った存在ではない点が、話を難しくしている。

相手が「国家」であるという点では、湾岸戦争は「冷戦型」の戦争といえる。日本近海をうろつく不審船も、「北朝鮮 (に間違いないだろう)」という国家が差し向けてくるものだ。しかし、イラクにしろ北朝鮮にしろ、過激な言い方をすれば「国を挙げてアルカイダ状態」なわけで、そう考えると、「冷戦型」と「ポスト冷戦型」の中間に位置づけた方がよいのかもしれない。

今回の「対テロ戦争」のような、「ポスト冷戦型」の紛争は、相手が国家の利益というよりも思想的な面での狂信性を根拠としているため、「話せば分かる」という理屈が通らない。現に、アルカイダはいきなり飛行機を乗っ取って WTC に突っ込ませたし、北朝鮮のものと思われる不審船は漁船を装って日本に接近した挙句、RPG や機関銃をぶっ放した。まっとうな国家のやり口ではない。

したがって、こうした「まともじゃない連中」を相手にするには、「まともな国家」を相手にすることを想定しているこれまでのドクトリンや国家安全保障戦略、軍の正面装備や訓練、そして各種の法律に至るまで、根本的に考え方を変えなければいけないのではないだろうか。

たとえば、交戦規則ひとつとっても、これまでの考え方で「防衛」という任務が果たせるのかということを考えなければいけない。(交戦規則がないのは論外)
「とにかく弾が飛ばなければいい」と考える人たちのことは措いておくとして、基本的には自国民の生命財産が侵されるような事態に立ち至ったら、断固として立ち上がるのでなければ、国防の任に就く者の存在意義がない。

特にアルカイダのような連中が相手の場合、そもそも「話し合いで何とかする」という思考回路がないのだから、「話せば分かる」という主張自体に根拠が乏しい。いきなりああいう連中が撃ってきたときに、黙って撃たれていろというのは無茶苦茶な話だ。

だから、何かまずい事態になったときは断固として発砲できるような法的根拠を整える一方、そうした武力行使が元で国家間の緊張を引き起こさないように、平素から近隣諸国との間で信頼醸成措置を図ることも必要だと思う。それをやらないと、一部国家によって「日本が武力でアジア制圧を目論んでいる」なんていうプロパガンダのネタにされてしまう。

もっとも、中国のように不審船の話はそっちのけで、自国の排他的経済水域 (EEZ) のことばかり持ち出すのも困り物だ。これでは「信頼醸成措置」どころか「信頼瑕疵措置」になってしまう。そもそも、自国の EEZ のことは声高に主張するくせに、日本の EEZ に調査船を入れるのは平気なのだから、二枚舌もいいところだ。

ここまで、「国家」という枠組みをベースに話を進めてきたが、ときどき「国家というものをすべて解体して、地球国家にしてしまえば解決する」なんてことを主張する御仁がいる。

一見、理想のように見えるが、てんで現実的ではないと思う。なぜなら、国家、あるいはさらに小さい単位ですらまとまりきれず、ちょっと意見が合わないとすぐに飛び出して別の派閥を作ってしまう「跳ね返り者」は世界中にゴマンといるのに、「世界」なんていう巨大な規模で、全人類が同じ旗の下に大同団結できるとは思えない。

冥王星から遊星爆弾が飛んできて、人類の存在そのものが危機に晒されるようなことにでもなれば別だが、そうでなければ、全人類が同じ旗の下に大同団結するという考えは、(現状を見る限り) まるで現実味を欠いていると思う。
嘘だと思ったら、すぐに仲間割れが発生するパレスチナやアフガニスタンの例を見ればよいだろう。

だから、さしあたっては「国家」という枠組みを基本にしつつ、いきなり武力で物事を解決しようとする「ならず者」を制圧することを考えるのが、喫緊の課題ではないか。
いきなり「地球国家」なんていう超遠大な理想を掲げても、決して物事は解決しない。まず、「反テロ」という枠組みで国家同士が団結するところから始めることが必要なのではないか。そして、国民はそうした動きを支援し、テロリストの思うままにならないことが必要なのではないか。

国家同士の戦闘と違い、こうした「ならず者」相手のバトルは華々しさに欠けるし、表立っての活動が見えてこない。だから、一般大衆ならびにマスコミとしては、ついつい苛立ってしまう可能性が高い。現に、対アフガン戦争では特殊部隊の活動ぶりが見えてこなくて、まことに "地味な" 戦争報道になってしまっている。
だが、そこでぐっと堪えて、テロリストに民心を蹂躙されないようにすることが必要なのではないだろうか。テロにおびえて萎縮したり、あるいはヒステリーを起こしたりするのは、テロリストを喜ばせるだけなのだから。

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