Opinion : 「どっちが強い」論争は、もう止めよう (2002/2/11)
 

あまり他人のことをとやかくいえた義理ではないが、「軍事」に関心を持った人の多くが、「兵器」から入ったのではないかと思う。実際、自分自身もその一人だった。

となると、さまざまな兵器に関して見聞を広めていくうちに、個人的な「思い入れ」ができてくる。その結果、仲間内で、あるいはネットで、「○○と△△のどちらが優秀か」という類の議論を始めることになる。

私もかつてはその手の議論に首を突っ込んだことがあるが、最近、すっかりこの手の話題に関心がなくなった。なぜか。


かなり前の話になるが、NIFTY-Serve の某フォーラムで、「F4F と零戦のどちらが優秀か」という大論戦が発生したことがある。その際、私は「F4F も決して悪くない」という視点で加わったのだが、その議論の過程で痛感したのは、「どちらか一方に都合のいい条件を設定しようと思えば、いくらでもできる」ということだった。

たとえば、「零戦派」の主張として「ベテラン搭乗員が乗った零戦でなければ比較は成立しない。なぜなら、零戦は日本刀と同じで、素人がやたらに振り回しても敵を斬れないからだ」というものがあった。

これは一見、正論に見える。だが、私にいわせれば「零戦優位」という結論を導き出すための方便でしかない。現実問題として、消耗戦が続き、大量の搭乗員を必要とした太平洋戦争では、両軍とも、そんなに多数の「ベテラン搭乗員」を確保できるはずがない。むしろ、「素人」の方が多くなるのは当然の帰結といえる。

日本では、今も昔も「職人芸」が重んじられるが、太平洋戦争について調べてみると、日本の優秀な搭乗員はたいてい、休む機会もなく扱き使われ、消耗して最後に戦死、というパターンが多い。そのパターンから外れていたのは、比較的早期に昇進して第一線から離れた人か、途中で大怪我をして戦線離脱を余儀なくされた人だ。

そうなると、「優秀な搭乗員が乗れば」という前提条件が崩壊してしまうのだが、「零戦派」はそういうところには目を向けない。これでは、現実的な議論は成立しない。

多分、「大和 vs アイオワ級」や、最近なら「F-15 vs Su-27」「M1A1 vs レオパルト 2」の類だって、事情は似たようなものだろう。どちらか一方に都合のいいシチュエーションをでっち上げれば、よほど差のある組み合わせでない限り、結論はどうとでもなる。

そのことに気付いた途端に、この手の議論に関わる気がなくなってしまった。
現実問題として、実際の戦争の勝敗を左右するのは、個々の兵器のカタログ性能よりも、それを動かす「システム」といえる。それならむしろ、システムの良し悪しを考えた方がいい。兵器は戦争に勝つためにあるので、特定の兵器に対して勝つためだけにあるわけではない。

それに、実戦では、たとえば日本海軍が「大和」を出撃させたら、米海軍がそれにお付き合いして「アイオワ」を出さなければならないとは決まっていない。
現に、天一号作戦のときには、マーク・ミッチャーが「俺にやらせろ」といって空母機動部隊で突進し、戦艦部隊を差し向けるつもりだったスプルーアンスに、結局は現状を追認させてしまっている。

あるいは、第四次中東戦争で、イスラエル御自慢の戦車隊が AT-3 サガーに散々な目に合わされた史実を持ち出してもいい。「どっちが強い」的視点に立てば、比較対象は M48 か M60 あたりと T-62A か何かになるだろうが、その組み合わせとは違った様相になり、意外な結果が出た。

ジャンケンの「グーチョキパー」の関係と同じで、「A は B より強い。しかし、B は C より弱い」的な関係がいろいろ成り立つ以上、なにも、必ず同じ土俵で勝負しなければいけないなんてことはない。戦史はそのことを証明している。

こう考えると、同じカテゴリーに属するものを 2 つ引っ張り出して、カタログ値でもって「どっちが強い」と視野の狭い議論をするのは、さほど意味がないことが分かる。アカデミックな研究としての価値はあっても、実戦の行く末とはあまり関係のない議論だからだ。

それに、カタログ値そのものが、そもそも議論の基盤として怪しい。同じ装備でも、運用している国によって稼働率や訓練の度合いに差があるのは周知の事実だし、たとえば戦闘機なら AEW 機やデータリンクといった周辺環境にだって左右される。そこまで考慮した議論がどれだけなされているかというと、どうだろう ?


軍事問題に興味を持つ最初の「取っ掛かり」として、第一線の正面装備から入るのは当然のことだと思うし、そのことは否定しない。ただ、本格的にこの問題に取り組もうと思ったら、訓練、整備、補給、情報、といった「システム要素」にまで視野を広げなければいけないと思う。

同じことは、「戦術」にもいえる。これが架空戦記なら、天才的指揮官が奇想天外な作戦を考え出して、少数の部隊で敵を壊滅させたというストーリーも成立するだろうが、現実にはそんなことは滅多に起こらない。むしろ、常識にしたがって正攻法の作戦を展開し、後方支援をきちんとやった方が勝っている。

戦争全体のシナリオを左右するのは、個別の「戦術」よりも、戦い方のグランドデザイン、つまり「国家戦略」の部分ではないか。太平洋戦争を見ると、日米の指導者層で最大の差があったのが、この分野だと思う。たとえば、日本海軍には「海戦にどう勝つか」という視点はあっても、「国家の戦争遂行に際して海軍がどうコミットするか」という視点が欠如していたように思える。

ついでに書くならば、「グランドデザインの欠如」というのは、今の日本の政財界にも共通する課題だと思う。景気回復とか構造改革とかいう前に、これからの次代に日本はどういう生き方をするのか、そのためには何が必要なのか、という議論が欠けているのではないか。

巷に流布した湾岸戦争やアフガン戦争の予想が、えてして「大ハズレ」に終わっている理由の一因は、幅広い視点を欠き、「装備の性能」のような表面的要素にとらわれ過ぎた予測をするからではないかと思う。どんなものだろうか。

Contents
HOME
Works
Diary
Defence News
Opinion
About

| 記事一覧に戻る | HOME に戻る |