Opinion : オリンピックと政治をめぐる雑感 (2002/2/25)
 

やはり、というべきか。オリンピックの判定をめぐるゴタゴタが続いている。
フィギュアスケートの判定をめぐる騒動と「金メダル 2 個」という極めて玉虫色の決着、あるいは「失格」が相次いだスピードスケートなど、全般的に「アメリカ贔屓だ」という批判が絶えない。

まあ、開会式から何から、何かと政治色の濃いイベントになってしまったのも事実だが、最初からテロ事件が起きるのを承知していて 2002 年の冬季五輪がアメリカ国内を開催地に選んでいたわけでもないから、半分は「偶然の一致」といってもよいかもしれない。

ともあれ、なにかと北米勢の優位という印象があり、他国からはそれに対して非難囂々という構図だが、この種の騒動、はたして今回に限ったことだろうか。


だいたい、日本人だって他人のことをいえた義理ではない。五輪については措いておくとしても、もっと怪しい事例として「国体」がある。
よく知られているように、どういうわけか、国体では必ず「開催県」が総合優勝を勝ち取ることになっている。場所が持ち回りなのに、なぜかそういうことになる。

もちろん、それは偶然の所産でもなんでもなくて、開催県が優勝を勝ち取るために、全国から優秀な選手を引っ張ってきて「自県の代表」として出すからそういうことになるのだが、それでは何のための「都道府県対抗」なのかといいたくもなる。

五輪でも、往々にして「開催国有利」な結果に終わることが多いのは、「自国のイベントで負けるわけにはいかぬ」という選手ならびにその周辺の気迫のなせる技ではないかという気がする。
プロ野球や J リーグで統計を取ってみると、やはり「ホーム優位・アウェイ不利」という結果が出たりしないだろうか。どなたか御存知なら、教えていただけると嬉しい。

とどのつまり、国体でも五輪でも、「国別対抗」「都道府県対抗」という枠組みがある以上、それに対する政治の介入を完全に捨て去ることは、まず不可能ではないのだろうか。
特に国家の統制が強い国からは、かつての共産諸国がそうであったように、五輪などのイベントを「国威発揚の宣伝場所」と考えて、国家まる抱えの「ステートアマ」が送り込まれて来る。これを完全に阻止することは難しい。

だから、北京五輪では、さぞかし物凄い事態が見られるのではないかと思う。多分、すでに中国政府は「五輪征覇」に向けて着々と手を打っているハズだからだ。

他にも、サッカーの試合結果に対する不満が原因で、本当に戦争してしまった国もある。今でこそ「サッカー戦争」と称してイロモノ扱いだが、当事者は真剣だったのだろう。

今回、非難の対象になっているアメリカの場合、「土地」というよりも「アメリカという国家の枠組み」がベースになっている分だけ、「国」をキーワードにした団結が起きやすい傾向があるように思えるが、なに、日本人とて他人のことをいえた義理ではない。

平素は国粋主義者に批判的な態度をとるマスコミも、五輪となると掌を返したように「メダルの期待がかかる日本代表の○○選手」といって煽るだけ煽り、それが万一、失敗でもした日には、今度は盛大にバッシングをする。かと思えば、シドニー五輪で高橋尚子選手が優勝したのに便乗して、小出監督を参院選比例区に引っ張り出そうとした手合もいる。
こんな調子で「アメリカによる五輪の政治利用」に文句をいう資格があるんだろうか。私にいわせれば、「どっちもどっち」である。


結局、「政治の介入」を排除するには、「国家」以外の枠組みをベースにして試合をするしかないと思うのだが、その点で、モータースポーツの世界は面白い。
F1 を例に挙げると、チームの所在地とエンジン屋とタイヤ屋とドライバーとスポンサー企業の国籍がみんなバラバラで、チームのスタッフからして多国籍の混成というのが普通だ。これでは、ナショナリズムの入り込む余地は少ない。

「イタリア人のくせにイギリスのチームに入るなんて」という類の、尻の穴の小さい批判が聞かれることは (現在では) ほとんどないし、日本人が鈴鹿でシューマッハやハッキネンやヴィルヌーブの応援をしていても、誰も文句をいわない。もちろん、日本人ドライバーが出るとなれば騒がれるが、五輪のような騒がれ方とは違う。
もともと、モータースポーツのバックボーンになっている自動車産業そのものが、グローバル化・ボーダーレス化の尖兵みたいなモノだからかもしれないが、こういう形の方が、見ていて気持ちがいい。

ただ、これはさまざまな要素を集めてひとつの競技に挑むというモータースポーツの特性がなせる業で、個人対個人で試合をするスポーツにはそぐわないスタイルなのは、残念だが認めざるを得ない。


となると、「恣意的判定」が入り込む余地を減らす、地道な工夫を積み重ねること以外に、「判定に対する不満」を排除する方法はない。タイムを競う競技や、野球やサッカーのように特定の条件を満たすことで得点を得る協議の場合は、せいぜい「反則」でもめる程度だからまだマシだが、困るのは、体操やフィギュアスケートみたいな「採点モノ」の競技だろう。モーグルも「採点モノ」なんだろうか。

もちろん、採点に際してなにがしかの基準はあるのだろうが、この種の競技では審判員個人の裁量が入り込む余地が他の競技に比べると大きそうだから、意図的か、そうでないかを問わず、もめごとが起きる因子がある。
私が常々いっていることだが、誰にでも固有のバックグラウンドや「お家の事情」がある以上、完全に客観的で公平で中立的で間違いのない判定を必ず期待するのは、かなり難しい。

私は、自らを「客観的」「公平」あるいは「中立」と称する人のいうことは、むしろ信用できないと思っている。私自身の論説だって、何らかのバイアスがかかっているであろうことは間違いないが、それをどう受け止めるかは、本稿を読んでくださっている皆さんが、他の意見も加味して判断すればよいことだと思う。

特に「採点モノ」の競技については、ファーストフードやファミレスの接客ではないが、誰が審判をやっても同じような結果が出る、極めてマニュアル化されたシステムを考案することはできないものだろうか。それができない限り、きっと同じような騒動は後を絶たないと思う。それでは、税務署の「裁量行政」と同じではないか。

試合の結果に対して「不満だ」といって政治家やマスコミが騒ぐだけならまだしも、五輪やその他の試合の勝敗が元で国家間に緊張が走ったり、またぞろ戦争を起こすような唐変木が出てきても困るのだ。「恣意的判定」も「スポーツの政治利用」も、どちらも願い下げにしてもらいたいものである。
日本人以外の選手でも、優れたプレーを見せてくれれば、それがどこの国の人だろうが構わないではないか。もっとも、あまりにも「国威発揚」がミエミエだと、愉快でないのは事実だが。

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