Opinion : パレスチナの騒乱に思ったこと (2002/3/18)
 

パレスチナの流血には、出口が見える気配がない。どちらの陣営も、相手を全滅させるまで手を引くつもりがないのではないかと思えてならない。

通常、本稿では何らかの結論めいたものを提示して締めるのが通例だが、今回に限っては、とてもじゃないが結論は出せそうにない。周りの人間がいくら骨を折ってみても、当事者が喧嘩を止めないのでは話にならない。


オスロ合意ができたのは、何年前のことだっただろうか。私はオスロ合意ができたときに「これで中東に完全な平和がやってくるとはいい切れない」と NIFTY-Serve (当時) で書き込みをした記憶があるから、少なくとも 1991 年以降の出来事だったハズだ。

もちろん、こんな益体もない予想は外れた方がよかったのだが、ものの見事に的中してしまった。「戦争より話し合いを、平和を」と呼びかけるのが空しくなってしまうような状態に見える。

他所の土地にもいろいろ民族紛争はあるが、どうしてパレスチナばかりがこんなに話がこじれてしまうのかと思うと、頭痛がする。こういう書き方をすると袋叩きに遭いそうだが、一方の当事者がユダヤ人で、もう一方の当事者がイスラム系というところにも、ついつい当事者が戦闘的になってしまう一因があるのではないか。

「ユダヤ人が」「パレスチナ人が」と単純に区切るのは危険だが、一般的認識として、ユダヤ人というと「二千年にわたって祖国を失った流浪の民」という枕詞が付くし、パレスチナ人にしても、イスラエル建国で同じ立場になってしまった。

日本的発想に立てば、自分たちが迫害された経験を持つイスラエルにこそ、今のパレスチナの立場も理解できるのではないかと思ってしまう。だが実際にはそこまで考える気分的ゆとりがなくて、せっかく建国した国がなくなってしまうという危機感の方が切迫しているのだろうか。
実際、過去に何度も周辺アラブ諸国から攻撃された経験があることを思えば、こうした危機感も故なしとはできない。

では、よくいわれるようにパレスチナ側が一方的に被害者なのかというと、そうとも思えない。横から武力闘争を焚きつけるお節介者がいるせいかもしれないが、話し合いより先に武力闘争に訴える傾向があるのは同じだと思うからだ。

こうなると、無責任な言い方だといわれそうだが、「どっちもどっち」という気がする。もっと始末に負えないのは、このパレスチナ問題をダシにして自分の暴力的振る舞いを正当化する、サダム・フセインやアルカイダのような連中がいることだ。


多分、対立する二つの勢力が融和する機会があるとしたら、それは現場レベルで一人一人が直接接触する機会が多くあって、実際に会って話をしたり、ものを売り買いしたり、相手の土地を訪ねるというプロセスを、それこそ何十年にもわたって繰り返す必要があるのではないかと思う。以前にも、同じことをどこかで書いたかもしれないが…

実際に会って話をすれば、「ああ、相手も同じ人間なんだ」という認識が生まれる可能性もある。メディアを通じて、あるいは伝聞を通じて勝手にイメージばかりが先行すると、なかなかそうは行かない。
たとえば、太平洋戦争中の日本と今の日本とで、アメリカという国に対する認識がどれくらい違うかを考えてみれば、このことは納得がいく。

だから、自分の殻の中に閉じこもって相手を寄せ付けず、なにかというと攻撃的な言葉で相手の批判ばかりしているような国は、周囲から「何を仕出かすか分からない」と思われても仕方ない。それでは、いつになっても緊張は緩和しない。
(どことはいわないが、北朝鮮のことだ)

ヨーロッパで東西冷戦の終結という結末を見ることができたのも、もともと地続きで、イデオロギーで対立しつつも人やモノの往来がそれなりにあり、文化的にも比較的近い面があったというファクターが影響していたように思える。それと比べると、中東では対立する両者の間の壁が、はるかに高い。

しかも、オスロ合意に伴って「暫定自治」という体制ができ、パレスチナ人が限られた場所に押し込められる結果になったことが、この傾向を加速したといったら言い過ぎだろうか ?

産業基盤も何もちゃんとしてない状態で、特定のエリアを決めて「パレスチナ人はここで暮らす」とだけ機械的に決めても、経済的な裏付けがなくて生活苦、というのはありそうな話。そうなったときに、もともと戦闘的なところがある人なら、あっという間に暴力に訴えても不思議はない。

「我々を狭いところに押し込めて、おいしいところはイスラエルが持って行ってしまった」とアジ演説のひとつもぶてば、すぐに乗ってくる人はいるだろう。
それで誰かが暴発して花火を上げれば、もともと「国がなくなるかもしれない」という危機感が頭から離れないイスラエル側が、過剰に反応してしまうのも無理はない。かくして、紛争の無限ループということになる。そんなところにノコノコ出かけていって「話せば分かる」といったところで、相手は聞く耳を持つまい。


一人一人の一般市民が、互いに直接会って話をする、ものを買う、相手のところを訪ねる、といったプロセスが紛争解決の手段として成立し得るのだと仮定してみよう。すると、今のパレスチナ暫定自治という体制をいったん御破算にして、イスラエルという国の中にパレスチナ人が現場レベルで浸透する方が、実は効果があるんじゃないかという考え方もできなくはない。

「それでは "パレスチナ人国家" がなくなってしまう」といって怒る人はいると思うが、同じ土地の中で対立する二つの勢力が、互いに「自分だけの国家」を作ろうとすれば喧嘩になるのは当たり前で、それでは百万年経っても解決しない。「名を捨てて実を取る」という考え方も必要なのではないかと思う。

イスラエルが入植地攻勢をかけるなら、パレスチナ側も逆入植攻勢をかけて、いつの間にか両者入り乱れて住んでいた、なんてことになれば、現場レベルで人と人との付き合いが生まれる可能性も出てくる。少なくとも、今のように物理的に区切られているよりは。

そうした状況を何世代、ひょっとすると何世紀かにわたって続けることで、両者の間の対立が自然と沈静化するかもしれないと考えるのは、やっぱりおめでたい考え方だろうか。
そんな解決は、やはり絵空事なのだろうか。

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