Opinion : 自分で看板を出せるスペシャリストになろう (2002/3/25)
 

はたと気が付いてみたら、マイクロソフトを辞めてフリーの物書きになって、早くも 3 年という日が経過していた。無我夢中で突っ走っているうちに「3 年経ってもモノにならなかったら考え直す」というタイムリミットを過ぎてしまったのだから、面白い。
幸い、読者の皆様、そして編集者などクライアントの皆様のおかげで、ピーク時には徹夜しないといけないぐらい仕事を頂戴している。本当にありがたいことだ。

もっとも、30 代も半ばという年齢になると、そもそも月日の経つのが早い。

会社が笹塚に移った後だから、9 年ぐらい前だったろうか。
マイクロソフトでバイトしていて、近く卒業するという学生の W 君に「社会人になると、月日の経つのが早いよ〜」といったら、横から別の同僚が「30 歳を過ぎると、月日の経つのはもっと早いわよ〜」と茶々 (本音 ?) を入れたことがあった。

このときは笑い話だったが、自分も 30 歳を過ぎてみると、この言葉の意味をひしひしと実感する (笑)


そんな私の仕事を構成する「トライアド」のひとつに、「教育系」の仕事がある。テキストを作ったり、自分が人前に出てしゃべったりしているわけだが、去年、そんな仕事の一環として、某社の新入社員を相手にしゃべる機会があった。

2 日がかりで一通りの内容をしゃべり終えて、最後に、こんなことを話した。

何でもいいから、自分で看板を出せるようになって欲しい。「この分野なら任せろ」と、自信を持っていえるような専門を身につけて欲しい。

厳密にはこの台詞、私のオリジナルではない。確か 16 年ぐらい前の「DIME」誌で、当時は日産に在籍していて、オーテックジャパンの社長に内定していた桜井真一郎氏が話していた内容の受け売りである。

今のように「成果主義」だの「スペシャリスト指向」だのが強くない時代の発言だから、当時の一般的なサラリーマン意識からしたら「はあ ?」という感じの内容に聞こえたかもしれない。まして、当時はまだ学生だった私に、働く上での気構えも何もあったものではなかったが、なぜだか、この台詞はしっかり覚えていた。

その後、機械屋だったはずが道を踏み外し、いつの間にやら IT 業界にどっぷり漬かるようになって 10 年以上経過した。最初の頃は「得体の知れない仕事をしている」と周囲に思われていたのも、今となっては笑い話。幸い、Windows 95 が爆発的に話題をさらった頃から周囲の風向きが変わってきて、今では「得体の知れない仕事」とはいわれなくなった。

もっとも、ポピュラーな仕事、あるいはポピュラーな勤め先になった分だけ、余計なところからも目を付けられるようになったが (苦笑)

同じ IT 業界といっても、関わりのある分野はいろいろ変わってきたが、比較的早い時期から LAN やインターネット (おっと。まだ JUNET だったっけ) に接する機会があったのが今の仕事にも大いに役立っているのだから、人生というのは分からないものだと思う。
最近、「JUNET 利用の手引き」を引っ張り出して読んでみたら、当時はチンプンカンプンだったことが、今ではよく理解できるのが笑える。

ひとついえるのは、「得体が知れない」とかなんとかいわれつつも、自分が面白いと思ったことにのめりこんできたのが、結果として吉と出たということだ。
周囲の目や、仕事に関する時代の流行り廃りを気にしていたら、多分、今の自分はなかっただろうと思う。社会人になりたての頃はバブル真っ盛りだったが、当時の流行に乗って金融か不動産関係に就職していたら、どうなっていたことやら。


私のようなケースは少々極端であるとしても、自分の専門を持つ、あるいは「この分野でなら誰にも負けない」といえるような看板を掲げるというのは、仕事をする上で大切なことだと思う。

その専門性とは、当然ながら、特定の組織の中でしか通用しないものでは具合がよろしくない。それでは、組織の外に出た途端に役立たずになる。業界横断的に、どこの会社に行っても通用するような、「この分野なら任せなさい」といえる看板を掲げられるに越したことはない。

リストラのようなことがなくても、いつかは定年その他の事情で組織の外に出なければならない日がやってくる。特定の組織の中でしか通用しない技能やノウハウを持っていても、そうした不可避の事情で外に出た途端に使い物にならなくなったら、哀しい。

まして、勤め先の知名度や威光を笠に着て威張っていた人が、退職に伴ってそういうメッキを剥がされてしまったら、悲惨だ。それを自覚しているのか、関連業界に天下ったり、退官後の仕事を斡旋させる役人というのもいるが、当事者がどう思っているにしろ、傍から見ると哀れだ。

もちろん、見方によっては「定年後まで収入が確保できる安定した生活」と映るだろうし、当事者もそれを期待して何十年も刻苦勉励してきたのだろうから、「当然の対価を受け取っているんだ。文句あっか」と反論してくるかもしれない。だが、自分で築き上げたものではない看板に頼っているという事実は否定できまい。

だいたい、若いうちから「老後の安定」なんぞを期待して、「とにかく無難に公務員で定年まで勤め上げれば」「一部上場の大企業なら潰れることもないだろうから」なんてことを考える、覇気のない生き方でどうする。
「○○省なら天下りに有利」「○○庁なら 23 年勤めると▲▲の資格がもらえる」(←伏字にした意味がない) なんてことだけを楽しみにして働くのが、そんなに楽しいか。そんな人生を送って、最後に「自分の人生に悔いなし」といえるのか。

もちろん、役所の仕事だろうがなんだろうが、それが自分の道だと信じて勤めるなら異存はない。ここで私がいいたいのは、仕事の内容は二の次にして、単に将来の「安定性」だの「天下り」だのに期待するのはやめておけば、ということだ。為念。

それよりむしろ、「俺はこの分野で一等賞を目指す。そのために勉強もするし、見聞を広める努力もしてきた。さあ寄ってらっしゃい」と、スペシャリストとして、プロフェッショナルとして看板が出せる方が、よほど誇りの持てる生き方だとは思わないか。

自分は何が得意なのか、何に熱中できるのかを真剣に見据えた上で、スキルを磨いたり見識を身につけたりした上で、組織の看板ではなくて自分の能力に恃む方が、よほど魅力的な生き方だとは思わないか。

誰も彼もが同じ分野のスペシャリストになる必要はなくて、各々が自分に最適と思われる分野で看板を掲げればいい。フリーで看板を掲げる人もいれば、企業の中で看板を掲げる人もいるだろう。サラリーマンはフリーより偉くない、なんてことは思わない。どちらにも、それぞれ得手不得手があるのだから、最適と思われるポジショニングを自分で考えればいい。

そうやって一人一人が強くなり、自分の足で立っていけるようになることが、今みたいな時代だからこそ必要なのではないか。そして、そのためにリスクを冒した者が後で報われるような社会にしなければならないというのも、また真理だと思う。

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