Opinion : 「有事法制」議論の不毛 (2002/5/7)
 

各所で「有事法制」の議論が激しいようだが、論点としては、おおむね、以下の 2 種類に大別できるように考えられる。

  • 「現在、日本を攻撃する国があるかどうかは別として、万一の事態に備えるために有事法制は必要である」
  • 「現在、日本を攻撃する国はないし、有事法制はアメリカに巻き込まれて日本も戦争をする羽目になるから反対」

今週は、この「有事法制」議論について考えてみたい。


そもそも、「有事法制」が何のために必要なのかを考えてみよう。根本はそこだ。

第二次世界大戦のように、何年もかけて「国家総力戦」をやるような時代ではないにしても、実際に国土が戦場になってしまえば、防衛任務のために私権の制限が必要になったり、必要なリソースを動員する必要が発生したりする可能性は高い。

また、防衛任務に就く自衛隊が、イザというときに撃っていいのか悪いのか、ということを明確にするには、交戦規則 (RoE) を明確に規定しておく必要がある。

問題なのは、こういう現実は無視して「戦争反対 → 戦争に関する規定を設けるのも反対 → それについて論じることすらも反対」という、一種の思考停止に陥ってしまう人が少なくないことだ。

もちろん、国家権力がいろいろな大義名分を設けて、私権や言論の自由に制限をかけるのはよくない。戦時にはある程度の制限が必要かもしれないが、昨今の戦闘行為はそれほど長引くものではないことがほとんどだから、停戦後は速やかに元の状態に戻す必要がある。
しかし、そのためのプロシージャをきちんと法律で規定しておかなかったら、どうなるだろう。

私が喧嘩しているストックオプション課税の問題もそうだが、権力者が自分の裁量で好き勝手に物事を壟断するのが、もっともよくない。税金の問題でも大騒動になっているぐらいだから、国民の生命・財産が左右される防衛問題に関してはなおのことだ。「超法規的措置」というのは、法治国家としては最悪の姿だ。

それを阻止するには、国民の代表によって十分な議論を経た上で、「超法規的措置」のような事態を惹起しないように、有事の際の武力攻撃に対する対処手順と、停戦後に状況を元に戻すための手順を明確に定めて、為政者による恣意的な解釈が入り込む余地をなくしておくことが必要ではないのか。

言い換えれば、有事法制というのは「軍事力の暴走を引き起こす」ためのものではなくて、「軍事力が、あるいは国家指導者が有事に便乗して暴走しないように法律で縛る」ためのものであるべきなのだ。

社民党あたりが大好きな「文民統制」という言葉にしても、社民党的には「軍部の暴走を文民が抑える」という解釈になるのだろうが、それは物事の片側だけを見た考え方だ。私が常々書いているように、文民が最高責任者に座るということは、文民の統制によって発生した結果に関する責任も文民の背中に負われるのだということを、社民党あたりは忘れてはいないか。

有事法制もそうだし、自衛隊の PKO 参加問題もそうだが、何かイベントが発生するたびに、その場その場で場当たり的に適当な解釈をくっつけて、裏口からコソコソと自衛隊を送り出すようなマネをしていては、いつか破綻をきたして収拾がつかなくなる。そうなってからでは遅い。

新聞の投書欄など見ていると、「日本が平和国家という国是を掲げている限り、攻撃されるはずがない」なんていう大甘な主張をしている人がいるが、そんな寝言を信じる人がどれだけいるか。攻撃側にとって戦略上必要とあれば、相手の国がどんな国是を掲げていようが、攻撃される可能性はある。

それに、現時点で武力攻撃を受ける可能性がないにしても、将来、日本周辺の政治・軍事情勢が変わって、武力攻撃の可能性が発生しないとは限らない。そういう、将来の「あってはならない」事態に備えて然るべき手を打っておくのが、立法府と行政府の仕事ではないか。

今、必要なのは、日本が国際社会にどのようにコミットするかという根本戦略を明確にすること。そして、それを実現するために、有事法制や PKO も含めて、どんなことが必要なのかということを法律で明文化し、場当たり式に適当な解釈が入り込む事態を避けることではないのだろうか。

少なくとも、世界各国が政治的・経済的に複雑に依存しあって国際社会が構成されている以上、「自分の国だけが平和なら、後は知らん」という態度を取ることはできない。「有事法制反対」とか「集団的安全保障反対」と主張なさるのは自由だが、反対するならするで、幻想ではなく現実性のある対案を示してもらいたいものだ。


念のために書いておくと、もちろん、軍事力による紛争解決というのは最終手段であって、そこまで行き着く前に決着がつくなら、その方がいいに決まっている。ただ、こちらが軍事力を使って解決するつもりがなくても、相手が同じとは限らない。だから、そのような「不測の事態」に備えることは絶対に必要なのだ。

それは軍事紛争だけではなく、天災や人災に関しても同じだ。たとえば、「自治体首長の要請がないと何もできない」という自衛隊法第 83 条が、災害に際して自衛隊の初動の足を縛っているという点に関する議論も、有事法制の議論と合わせてやってみたっていいではないか。災害だって一種の「有事」に違いない。

「不測の事態」について考えるということと、「不測の事態を希求する」あるいは「不測の事態の回避を願う」というのは、まったく別の問題だ。「不測の事態に備える」からといって、「不測の事態が発生する」あるいは「不測の事態の発生を希望している」というのは、あまりにも短絡的に過ぎる。そんな考え方で有事法制を論じるのでは話にならない。

単に「戦争賛成/反対」という、単純でミクロ的で視野狭窄な議論をしている場合ではなくて、日本の国家戦略の中で、たとえば有事法制をどう位置づけるかという戦略的なモノの考え方が必要ではないのか、と申し上げたい。

「では、それに対する井上の意見はどうなんだ」という声も出てくると思うので、それについても、別の機会に取り上げてみたいと思う。

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