Opinion : W 杯のニュースを見ながら、"愛国心" について考えた (2002/6/17)
 

なんだか世間はワールドカップで大騒ぎ、さらに日本代表の決勝トーナメント進出で大騒ぎが加速、という状況になっているらしい。まあ、新聞・TV・雑誌が煽りに煽っているし、当然の帰結といえるだろうか。

こちらは仕事が溜まっていて、一日だけ気分転換のために "雲隠れ" した以外は自宅に缶詰状態で仕事をしているのだが、それでも日本代表の決勝トーナメント進出が決まったチュニジア戦だけは、途中から見た。ともあれ、自国の代表選手がピッチで頑張っているのは素晴らしいことだ。

おかげで、あちこちで「ニッポン !」コールが激しいようだが、オリンピックなどと同様、これは日本という国に対するものというよりも、立場を同じくするものの連帯感、という方が正しいのではないかと思う。


もう相当に昔の話だが、文部省が「愛国心教育」なんてことをぶち上げて、野党に叩かれまくったことがあったと記憶する。今にして思えば、叩いた野党の方だって純粋な動機があってのことかどうか怪しいが、そもそも「愛国心」なんてものは、教育してどうにかなるものではない。

全体主義国家や独裁国家でよくやるように、自分の国の格好いい話、都合のいい話ばかりをフィーチャーして「私の国は世界一♪」という思想を子供の頃から植えつけた上で、それを悪用して国家体制維持のために国民の生命を使い捨てにするというのは褒められた話ではない。

文部省がいうところの「愛国心」だって、究極的には「お国のために犠牲になれ」というあたりが本音かもしれない。少なくとも、戦前・戦中にはそういう教育をやっていたわけだし、それと同じことをもう一度やりたいと思っても不思議はない。国家体制の側から見れば、自分たちの立場を護るために国民が犠牲になってくれれば、ありがたいことなのだから。

あいにくと、その辺の目論見は破綻状態だし、実際、スタジアムで「ニッポン !」コールをやっている連中をつかまえて「貴方はお国のために死ねますか ?」と聞いたら、ほとんどの人は「とんでもない !」といいそうなものだ。某漫画家が聞いたら怒髪天を突きそうだが、それぐらいで丁度いいと思う。

「自虐史観」を主張する人達の言い分を取り入れて、日本の歴史の中で耳当たりのいい、奇麗事だけを教え込むことで身に付いた「愛国心」なんていうのは、所詮はメッキのようなもの。そんなものは、何かきっかけがあれば、すぐに剥げ落ちると思うからだ。

そもそも、太平洋戦争でもそれ以前の戦争でも、あるいは他所の国でも、自分の国の「政治体制」を護るためと本気で信じて戦場に向かった兵士が、どれだけいただろうか。彼等・彼女等が護りたかったのは、自分が生まれ育った土地や自然、そこに暮らす家族や友人といった、もっと身近な次元のものだったのではないだろうか。

どこの国でも、いつの戦争でも似たようなものだが、美辞麗句を並べ立てて国民を戦場に駆り立てる指導者ほど、自分は危ない場所には出て行かないものだし、もし戦争に負ければ自らの保身を優先してしまうのが世の習いだ。
具体的な名前を出すのは差し控えるが、日本にもそういう事例はいろいろある。外国でも、事情は似たり寄ったりだ。自国の敗勢著しいときに、自分の居城に高価な美術品を抱え込み、戦後は連合軍に取り入ろうと企んでいた某国空軍の親玉を見れば、そのことがよく分かる。

そんな連中の立場を護るために、無名の国民が自らの生命を投げ出したとあっては、まったく浮かばれない話ではないか。自分が生まれ育った土地や、愛する人を護るために戦場に赴いた無名の戦士の心情を、なめているとしかいいようがない。そんなことのために「愛国心」なんて言葉を使ってもらいたくない。


では、サッカーでもオリンピックでも、何かイベントがあると突如として「日本人としての連帯感」を発揮してしまうという、あれは一体なんなのだろうか。

思うに、あれは「自分たちの代表が、何か大きな目標のために他国の代表と闘っているから、それを皆で応援しようじゃないか」という、一種の連帯感の現れではないのだろうか。
もちろん、「流行りモノである」とか「マスコミの煽りに乗せられた」という側面もあろうが、それだけでは、あの異様な熱気は説明できない。

多分、ワールドカップが終われば、この熱気もスーッと冷めるのだろうが、これは一種の祭りのようなものだから、それでいい。また、次のイベントになったら、同じように盛り上がるだろう。

だいたい、サッカー日本代表にしてもオリンピック出場選手にしても、「お国のために」と思って出ている選手がどれだけいるだろうか ?
少なくとも、「日本の政治家を喜ばせるために」とは思っていないのではないか。かつての共産圏や、イラク、北朝鮮みたいな国なら、また事情も違うだろうが、それは「教育の成果」というものであり、また事情が違う。

もちろん、背負っている看板は「日本代表」という国の名を冠したものであるにしても、それは「日本人としての連帯の象徴」みたいなもので、「日本という国家体制の象徴」ではないだろう。それを、国家体制の側が、何かいい結果が出たときだけ都合よく利用しているだけなのだ。だからこそ、オリンピックで金メダルを取った選手に国民栄誉賞を出す、なんていう話がすぐに出る。


おそらく、「9.11」以降のアメリカで突如として湧き上がった「アメリカとしての連帯」も、根っこの部分は似たようなものではないのだろうか。普段は「アメリカ人としての意識」だとか「愛国心」だとかいうものを持っていない普通の一般市民が、何か外敵が現れたことで「連帯感」に目覚めるという点では、日本の「W 杯騒ぎ」と似ている。もっとも、後者の方がはるかに平和でいいのだが…

願わくば、こういう「日本人としての連帯感」を、政治家その他が都合のいいように悪用して「愛国心」や「国粋主義」を煽るような動きに出ないでもらいたいものだ。それはいささか、動機が不純に過ぎる。
不景気だなんだで、日本全体がなんとなく閉塞ムードにある昨今だからこそ、そういう動きに注意したいと思う。

ちなみに、「W 杯の経済効果」なんてものに期待している財務大臣は、論外である。イベント頼みの経済効果は、イベントが終わったら消えてしまう。そんなものに期待するのは、職務放棄に他ならない。

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