Opinion : 今こそ、先を見通す目が問われる (2003/1/6)
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例のストックオプションの件が、過去に例のない訴訟沙汰になっている根本原因は、会社員に対する報酬、あるいはモチベーション向上手段が多様化しているという現実に税法が追いついておらず、旧態依然の「所得区分」の概念に強引に当てはめざるを得なかったという現実と、国税当局の「取らんかな主義」にある。
しかし、法律や制度などが現実に追いついていない、あるいは現実が追い越しつつあるのは、この世界の話だけではない。そのような時代において、先見性や洞察力が大事だという話を書いてみようと思う。
最近、UAV を初めとする各種の無人兵器・ロボット兵器の話が賑やかだ。現在は偵察や監視、情報収集を主たる用途にしているが、将来的には無人戦闘用機 (UCAV) の登場も確実視されている。
こうした無人戦闘用機の用途としては、有人機では危険性が高い敵防空網制圧 (SEAD) などが考えられているが、ヘルファイア対戦車ミサイルを搭載した CIA のプレデターがアルカイダの幹部の乗った車を吹っ飛ばしたことで分かるように、護りの弱い相手なら UAV でも攻撃できるようになっているのが現実だ。
といっても、プレデターは人間の手で遠隔操縦される UAV で、いわゆる "man-in-the-loop" の機体だから、従来と同様の交戦規則でも問題ない。兵装を発射するかどうかの判断は、あくまでオペレーターに委ねられている。つまり、兵器を撃つことの責任はオペレーターにある。
しかし、将来の UCAV では、無人機が自律して目標の発見・捕捉・攻撃を行うとされている。つまり、"man-in-the-loop" ではない。すると、人間が最終的な発射の判断に介在することを前提にしている (可能性が高い) 現行の各種法規や交戦規則に、例外ができてしまう。
今の米空軍では、空中戦において攻撃許可を出すのは AWACS に乗っているコントローラーで、コントローラーが許可を出さなければミサイルも機関砲も撃ってはいけないことになっている。戦闘機のレーダーよりも AWACS のレーダーの方が優れた敵味方識別能力を持っているという事情で、こうなっているらしい。
おそらく、対地・対艦攻撃でも、誰かが許可を出すまで撃てないという事情に大差はないだろう。
しかし、あと何十年かして無人戦闘機なんてモノが実用化された日には、果たして同じやり方でいいのかどうか、疑問がなくもない。たとえば、完全自律モードにして送り出された UCAV が、誤射・誤爆・味方撃ちなど、とにかく「撃ってはいけないもの」を撃ってしまった場合、そのような事態を生起した原因、あるいは責任の所在が問題になる。
直接的には、完全自律モードにして送り出すかどうかを判断した人に責任があるということになるのだろうが、それにしても UAV がどのタイミングでどの地域に送り出されたかによって、攻撃が実施されるかどうかは変わる。そこまで見越して自律モードにするかどうかの判断を求められ、責任を問われるというのは荷が重い話だ。
また、間接的なことをいえば、目標を捕捉するセンサー、あるいはそこから得た情報を基にして攻撃の是非を判断するソフトウェアを開発した人にも、責任の一端があることになってしまう。"man-in-the-loop" なら、撃つかどうかの判断を行った人に対して「おまえが悪い」といえるが、機械が勝手に判断してミサイルをぶっ放した責任は、いったい誰が取ればいいのだろう ? そもそも、そのような戦争の仕方は、現行の国際法や交戦規則に照らして、問題はないのだろうか ?
似たようなことが、自動運転システムにもいえる。
いまのところ、無人の自動運転といえば鉄道の専売特許で、それも高架の専用軌道を使う新交通システムに限定された話だから、死傷者が出るような事故にはつながっておらず、結果として問題にもされていない。だが、ITS 構想が進展して高速道路の自動運転なんて話になったら、事情は違ってくる。
たとえば、高速道路で事故や故障が発生し、車外に出た人が通過者にはねられるという事故がよくある (運が悪ければ、私もこれでお星様になっていたかもしれない)。もし、自動運転しているクルマの前方で事故が発生し、事故車から降車した人が自動運転中のクルマにはねられたら、その責任の所在は誰にあるのだろう ?
もちろん、高速道路の自動運転なら運転席に人が乗っているだろうから、緊急時の回避責任は運転席に座っている奴にある、という見方もできる。確かに直接的にはそういうことになるが、自動運転システムを使うという判断に問題はなかったのか、あるいは自動運転システムのアルゴリズムに問題はなかったのか、等々、責任の持って行き所 (というか、なすりつけ所) はいろいろと出てくる可能性が高い。それについて真剣に議論した人が、どれだけいるのだろうか。
たいていの場合「新技術」を考える人は、その「新技術」をモノにすることに集中するものだから、その結果としてどのような問題が起きるか、新技術がどのような使われ方をするか、というところまで十分に思いが至らないことが少なくない。だから、各種の新技術や新サービスが、往々にして悪用され、本来の目的通りに使われずに姿を消してしまったり、あるいは不本意な機能制限を課されたり、ということになりがちだ。
そういう形で技術の進歩の芽を摘まないためには、新しいテクノロジーやサービスがどこにどのような影響を及ぼすか、どのような問題を生起する可能性があるか、現行法との整合性はどうか、修正すべきは技術と法律のどちらか、といったことを考える人が、開発担当者とは別にいなければならない。それは当事者ではなく、第三者的視点でモノを考えられる人でなければ駄目だ。
特に法律が絡む話では、立法府たる国会の責任は重い。にもかかわらず、国会議員が実質的に「国の資金引き出し係」以上の役割を果たしておらず、技術やサービスの現状を把握しきれていない現状では、こうした先見性を期待するのは望み薄のように見える。
だから、(憲法 84 条というものがあるにもかかわらず) 税制面での手当てをちゃんとやらずにストックオプション制度の導入だけを議員立法で先行させ、結果として税制面でのゴタを引き起こす醜態を晒した。もちろん、直接的な責任は裁量行政を横行させている国税当局にあるが、それを結果としてバックアップしてしまった国会にも、責任の一端はある。
また、2002 年に大きな話題になった「迷惑メール」対策にしても、果たしてインターネットにおける電子メールの現場がどのようなことになっているのか、正しく理解した上で霞ヶ関や永田町が対策を考えたのかどうか、個人的には非常に疑問だ。現場を分かっていない者が対策を考えるから、結果として迷惑メールを奨励するようなことになってしまう。
同じようなことが、他の技術、あるいはサービスの分野で再発しないと、誰が保証できるだろうか。そうした不幸な事態が続けば、結果として技術やサービスの進歩の足を引っ張ることにもなりかねない。新技術に胸ときめかせるのも結構だが、その先のことまで考えてこそ、「人間の英知」も本物といえるのではないかと思う。いかがだろう ?
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