Opinion : 住民運動のあり方に関する尽きない疑問 (2003/1/20)
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私は以前から、小田急の線増立体化に際して地下化を求めて運動している一部住民に対して、比較的 (?) 厳しい論調で臨んでいる。それは、地下化という結論に固執するあまり、線増工事が遅れて迷惑している数十万人の利用者のことをまったく考えていない運動のあり方に、尽きない疑問を覚えるからだ。
ところが最近、これまた首を傾げざるを得ないような話が、いくつか出てきている。今回は、この辺の話について考えてみたい。
まずは「旧正田邸問題」だ。
1 月 17 日に、すでに作業に着手している「旧正田邸」の取り壊し中止を求める仮処分申請が出されたそうだ。そもそも、当の皇后陛下が「取り壊してもよい」と発言されているにもかかわらず、周囲が勝手に保存を求めるというのは滑稽極まりない。
これは誰しも認めざるを得ないところだろうが、建物そのものに学術的価値があるという性質のものではない。とどのつまり、「皇后陛下の生家」というだけの話である。
近隣住民にとっては、「うちの地元に皇后陛下の生家がある」というのが自慢の種で、それが失われたくないから運動しているのではないかと勘ぐりたくもなるのだが、この推測、あながち的外れなものでもあるまい。
どうしても「皇后陛下の生家」という自慢の種を維持したいのであれば、まずは趣旨に賛同する人に寄付を募るべきだろう。そして、集まったお金で土地と建物を関東財務局から買い取るという条件を提示して、取り壊しの中止を求めるのであれば、これは筋が通っている。そういう条件なら、関東財務局も文句をいうまい。(ただし、妥当な価格が提示されればだが)
しかし、自分たちの「自慢の種」をなくしたくないために、国、あるいは地方の税金を使って建物の保全を求めるというのは、おかしな話だ。しかも、一度振り上げた拳を引っ込められずに仮処分申請まで出すに至っては、もはや悪あがきというしかない。
もうひとつ、気になっている事例として、滋賀県の豊郷小学校騒動がある。
こちらの場合、建物事態の「歴史的価値」という点で旧正田邸とは事情を異にするが、それでも首をひねらざるを得ない点はある。
校舎の保全を求めるのは、まだ分かる。しかし、校舎を授業に使い続けるように求めるのが分からない。シミュレーションの際に入力した数値が実測値ではなく推定値だからといっても、耐震性に疑問符が付くという事実に大差はあるまい。それを、「実測値ではなかった」という話を鬼の首でも取ったかのように騒ぎ立て、取り壊し中止に話を結びつけるというのは無理がありすぎないか。
歴史的建造物の保存ということなら、博物館明治村がある。あそこに移築された建物の多くは、元の機能を果たしていない。たとえば帝国ホテルの建物があるが、中身はガランドウで、ホテルとしての体をなしていない。だからといって、明治村に移築された帝国ホテルの建物に価値がないなどという人はいない。
豊郷小学校の場合も同じだ。東京の都心と違うのだから、土地を別に確保して新しく校舎を建て直し、授業はそちらで行う。ただし、現校舎については歴史的価値に鑑み、取り壊しは中止して保存する。ということでは、どうしていけないのか。
小田急の件もそうだが、この手の住民運動が陥りがちな落とし穴として、運動の自己目的化があると思う。つまり、一度始めてしまった運動の引っ込みがつかず、運動を続けること、当初のお題目を維持すること自体が目的になってしまうわけだ。
そして、いささかあやふやで定量性を欠いている「世論」とか「国民の声」みたいなお題目を唱え続け、TV カメラの前で怒りの演説を繰り返すことになる。
小田急の件など典型例で、もう 10 年以上に渡って騒動が続いているが、お題目が「耐震性」だったり「環境」だったり「道路が地下化するんだから小田急も」だったり、はたまた「立体化事業手続きの合法性」だったりと、自分たちが最初にでっち上げた結論を実現するなら手段は選ばず、というのが実態だ。
なんのことはない、「ストックオプションの権利行使利益を一時所得にしたくない」という動機から、無茶な理屈をこね続けている国税庁と同じではないか。
こういう形でさまざまな住民運動がゴネ続けると、本当に「住民の声」をすくい上げなければならないような事態が発生したときに、それが世間からソッポを向かれることになりかねない。たいていの場合、マスコミその他では「住民運動」といって十把一絡げにされやすいからだ。
運動をするのは自由だが、節度や引き際を弁えておかないと、却って失うものが多いと思うのだが、どうだろうか ?
ついでに付け加えておくと、どんな運動であれ、それが正しいかどうかは内容による。決して、運動している人の立場で決まるわけではない。だから、「生活者の意見」なるお題目で選挙に出るのはおかしいと思うし (そこには、生活者だから正しい、そうでなければ間違い、という誤謬がある)、「市民の声」「住民の声」だから正しいというものでもない。
もっとも、「逆もまた真なり」で、行政のいうことだから必ず正しいとも決まらない。行政がトンチンカンをやった事例もまた、決して少ないとはいえない。
そんなわけで、「最初に結論ありき」で無謀な主張のゴリ押しを続けていると、正直な話、社会の迷惑だ。小田急にしろ正田邸にしろ豊郷小にしろ、一度立ち止まって、運動のあり方を再考してみるべきではないだろうか ? 当事者は必死になっているから事態が見えてないかもしれないが、傍から見ると「どうも違う」ということになりがちなのだから。
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