Opinion : 話をそらすな (2003/2/17)
 

イラクのサダム・フセイン大統領が、アメリカの対イラク非難を「宗教差別だ」といってブーたれているらしい。

確かに、世間一般の認識としてはイラクはスンニ派イスラム教国家ということになっているが、フセイン大統領が「イスラム」を持ち出すこと自体、そもそもナンセンスだと思う。なぜかといえば、根本的にサダム・フセインという人物は「自分教」であって、自分自身のことを神だと考えているのではないか、と思うからだ。都合のいいときだけ「イスラム」を持ち出して論点をずらすあたり、いかにもサダム・フセインらしい。

この「自分教」というのは、独裁者には往々にして存在する共通傾向で、北朝鮮の偉大なる指導者様にも同様の傾向があると思うのだが、どうだろう ?

また、サダム・フセインは「イスラエルが大量破壊兵器を持っているのは非難しないのに、どうしてイラクの大量破壊兵器は非難されるのか」ともいっているらしい。一見したところ正論に見えるが、これも論点逸らしという点では同じことだろう。

なぜなら、私は常々「兵器はそれが存在するということだけでなく、それを使用しようとする意思まで含めて脅威になるかどうかが決まる」といっている。
その論法でいくと、少なくとも鉛の弾は撃っても NBC 兵器を使った前科はないイスラエルと、すでにイランやクルド人を相手に化学兵器を使った前科があるイラクを同じ次元で論じるのが間違っていることになる。

国家やテロ組織が何らかの兵器を通じてもたらす脅威とは、

脅威 = 脅威をもたらす意思 × 兵器の能力 × 過去の実績

という数式で求められるというのが私の考え方であるわけだ。イラクの場合、このすべてが揃っているから、反発を買っている。サダム・フセインの論法は、この中から一部の要素だけを抜き出して論じることで、論点を逸らそうとしているものだと思う。


もっとも、この手の「論点逸らし」は、何も国際政治の話に限った現象ではない。実は意外と、日常的に遭遇する問題であったりする。

ちょうど昨日、@nifty から「入会 11 周年です」というメールをもらったが、実際、パソ通時代から勘定すると、私のネット歴は 12 年を超えている。それだけ長くネットを通じたコミュニケーションをやっていれば、いろいろとバトルを見聞きしたこともあるし、自分がバトルの当事者になったこともある。そこでは往々にして、この手の論点逸らしが出てくるものなのだ。

よくあるところでは、相手が主張している内容に対して真っ向から反論せず、相手の別の弱み (本論とは全く関係のない内容の) を攻撃することで、争点を別の方向に移そうとする手法がある。

これ、ネット上のバトルでは往々にして見かける話だが、大マスコミでも同じ手口の誘惑に引っかかることがあるから始末が悪い。いい例が、「豊郷町長が理事長の協同組合、10 年以上決算書類出さず (asahi.com)」だろう。

例の校舎保存問題をめぐって、町長が非難されているのは知っている。それなら、校舎保存問題に対する町長の姿勢を論破し、反証することで町長の行為の不当性を証明すればいいのだ。ところが、この記事は校舎保存問題とは直接関係のないところで、町長を非難し、話をずらしている。

早い話が「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という類のもので、校舎保存問題とは何の関係もないし、校舎保存の問題がなければローカルのベタ記事扱いにすらなったかどうか、という話だろう。たまたま、町長が校舎保存問題で叩かれていたから、こういうネタまで蒸し返されているわけだ。
決算書類と校舎保存問題の間には、直接的な関係は何もなかろう。なにしろ、問題になっているのは「食肉事業の協同組合」なのだ。これが土木・建築関係の話だったら、まだ理解できる範囲なのだが。

似たようなことは他にもあって、たとえばしばしばマスコミの話題になる「自衛官や警察官の不祥事」。特に自衛官の不祥事報道に関して顕著なのだが、自衛隊の存在を否定したいがために、自衛隊員の不祥事というと飛びついて、盛大に書き立ててしまっているという傾向が、果たして皆無といいきれるものだろうか ?

この手の話としては、他にも、ライバル関係にある新聞社や出版社が、互いに相手の不祥事というと書き立てまくって泥仕合になる事例がある。根底の部分は、みんな同じだ。


少なくとも、本論を援用するために、関連する別の話題を持ち出す、というのであれば、まだ話は分かる。もっとも、それとて本論の主張の弱さを補うためのカムフラージュという場合があるにはあるが、「関連がある」話題で「援用する」なら、まだしも許容範囲かと思う。

だが、本論と全く関係のない別の話題に話をそらし、本論における議論を避けようとする態度は、あまり褒められたものではないと思う。自分の主張が正々堂々たるものであると信じているのなら、それを徹底的に主張して、相手を理論で正面からねじ伏せればよろしい。
それができないのであれば、別の話題を持ち出して争点逸らしを図った時点で「負け」を認めたも同然といえるのではないだろうか。

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