Opinion : "自主" なら何でも偉いのか ? (後編) (2003/3/3)
|
先週は、「自主」という看板に目が眩んで、なんでもかんでも「自主」を追求するのが果たして正解なのか、という問題提起について書いた。
霞ヶ関がしばしば陥る「日の丸ほげほげ症候群」にしても、「自主的」「自主開発」という言葉にこだわっているという点では同じことだと思う。ありとあらゆる産業やテクノロジーを「日の丸製品」で固めることに固執し、「国産・自主開発」でアブハチ取らずの結果に終わるリスクを負うことが、果たして国家や国民にとって最大の利益だろうか。
むしろ、ターゲットとなる分野を絞り込み、「こことここは譲れないから自力でなんとかする。その代わり、こことここについては日本の得意とする分野ではなさそうだから、外国製品でも許容する」というような、多少は柔軟性のある考え方をしてみても、決してバチは当たらないと思う。
あるいは、「日の丸ほげほげ症候群」の犠牲になりがちな武器開発。
ミサイルを国産でやるのは、民間の状況を考えると納得できる (といっても、モノによっては国際共同開発もありだと思うが)。最近では、銃砲類の分野は外国製品が幅を利かせつつあるようだが、これは仕方ないかもしれない。一方で、艦船が国産なのは分かる。
面白いのは、ヨーロッパの兵器産業では、分野ごとに「一流企業」がさまざまな国に散在していることだ。いい例が、ベルギーの FN Herstal や、イタリアの OTO Merala、ドイツの Heckler & Koch といった銃砲類のメーカーだろう。なんでもかんでも「自主開発」にこだわらずに、得意分野に集中した一例だと思う。
もっとも、学校で「オール 5」を取ることを目指して努力した人が霞ヶ関で官僚になるわけだから、そこでもまた「オール 5」を目指すのは、幼少の頃からの刷り込みの成果という観点からいって、無理もないことなのかもしれない。
|
アメリカが対イラク戦争に向けて突進する中で、フランスやロシアが「戦争反対」といって刃向かっているのを賞賛する向きがある。なるほど、戦争しないで解決するなら、その方がいいに決まっているから、「戦争反対」というお題目だけ見ると、フランスやロシアが正義の味方で、アメリカが悪の帝国みたいに見えてくる。
だが、断言してもいいが、フランスがアメリカの方針に反対しているのは、ただ単純に戦争を望まないからではない。フランスが「平和愛好国家」だなどといえないことは、過去の歴史が証明している。そんな「フランス独自の自主外交」の裏側について、「自主的行動」の裏側に何があるのか、考えてみよう。
そもそも、フランスというのはあれで結構、節操のない国だ。対立している双方の国、たとえばアラブ諸国とイスラエルの両方に戦闘機を売りつけるような真似をするのはフランスぐらいのものだが、最近でも、インドとパキスタンの両方に潜水艦を売っている。
兵器でもそれ以外の商品でも、官民挙げての強烈な売り込み作戦を展開するのがフランス流なのは、たとえば鉄道技術の輸出に関わったことがある方なら、骨身に染みて思い知らされているハズだ。
イラクの大量破壊兵器開発疑惑として、かつては核兵器も俎上に上っていた。その核開発を加速する結果になった、オシラック原子炉。結果的にイスラエル空軍機の爆撃で吹っ飛ばされてしまったが、あれをイラクに売ったのは誰か。他でもないフランスだ。
当時、フランスの石油輸入の多くがイラクに依存していたのが災いして、イラクの原油を使った脅しに屈して原子炉を売ったのがフランスだ。付け加えれば、原子炉のみならず、ミラージュ F1 戦闘機まで売っている。あれやこれやで、イラクはフランスの「中東利権」を構成する拠点のひとつといっも過言ではない。
そのイラクが米英軍の攻撃で降伏するようなことになれば (イラクが勝つというシナリオは、考える必要はないと思う)、当然、戦後復興だって米英主導で進む可能性が高い。特にイギリスは、これまた中東とは歴史的関わりが深い国だし、もともとイラク一帯に関わりが深い。
そんなことになれば、せっかく作り上げてきた、フランスの「イラク・コネクション」がパーになってしまう。フランスほど露骨ではないものの、ロシアだって事情は似たり寄ったりだろう。
多分、フランスがアメリカ主導の軍事的解決に反対している本音の理由は、こんなところだろう。だから、もし戦争が不可避ということになれば、湾岸戦争のときにそうしたように、ちゃっかりと戦闘機や空母を送り込んで来るのは間違いない。そして、戦後の分け前に与ろうとするのがフランス外交だ。したたかというか、ちゃっかりしているというか。
話が散らかってしまったが、要は、あらゆる分野で看板に「自主」と付けば偉いのではなく、状況に応じてさまざまなやり方を使い分けることができるフレキシビリティを身に付けることの方が、特定の看板にこだわるよりも、はるかに大きな利益を得られるのではないかということだ。本来の目的を見失って、看板にこだわるのは愚かなこともある。
|