Opinion : 経済産業省の、怪しげな "オープン" 志向 (2003/6/30)
 

最近、経済産業省 (だけでなく、日本政府全体か) オープンソース・ソフトウェアに御執心だ。いわゆる「電子政府」を、オープンソースの OS でやるかどうかで、業界がスッタモンダしているのは、よく知られた話だろう。
で、オープンソース・ソフトウェアを推す際の理由がふるっていて「ソースが公開されていないと、セキュリティ面で不安」なのだそうだ。


私見だが、ソフトウェア開発に際してソースを公開し、自由な改変を認めるというオープンソースの考え方は、元をたどると「互助」の精神に行き着くのではないかと思う。つまり、開発の成果やノウハウを皆で共有し、もし足りないものがあれば、欲しい人がそれを作って提供し合う。それにはソースが公開されていないと具合が悪いから、ソースを公開するというのは、「互助」の精神からいえば必然であるわけだ。

最近では、セキュリティ問題に関する関心が高まっているから、「ソースが公開されていれば、それだけ多くの人の眼に触れるから問題点が発見されやすい」などと、セキュリティ面での長所が強調されている。しかし、それはあくまで「結果論」であって、最初からそういうメリットを得るためにソースを公開していたわけでもあるまい。

さらに、ソフトウェア開発の現場に直接かかわりのない人を相手にする新聞・TV になると、オープンソースの最大のメリットは「タダ」ということになってしまう。なるほど、ソフトウェア開発を商売にしておらず、いわば「手弁当」で開発されたものだから、経費がかかっていないのは当たり前で、その成果を「タダ」で提供できるのは当然の話だ。
しかし、だからといって開発やテスト、コードレビューなどに労力がかかっていないわけではない。「タダ」あるいは「安価」だからというだけの理由でオープンソース・ソフトウェアに走るのは、いってみれば、他人の労働成果にタダ乗りしているといえなくもない。

草創期の、ボランティア・ベースで動いていた USENET や JUNET の時代なら、ソフトウェアを生み出す側と利用する側は、いってみれば同じ世界の住人だったといえる。だから、ソースと成果物をタダで公開して「みんなで使ってね。具合が悪かったら教えてね。都合の悪い部分は自分で直してもいいよ。でも、どう改変したかは教えてね」という「互助」の精神で丸く収まった。しかし、ソフトウェアを開発する側と利用する側の分化が進んでいる昨今、「互助」の精神が成立するのは難しくなってきている。

この「互助」の精神で成り立っていた時代と現状の乖離は、インターネットそのものにも当てはまる。
かつては、個々の組織を結ぶ通信回線はボランティアで提供し合っているリソースだったから、それを商用利用しないという約束があったのは、当然の話といえる。その時代の「互助」の精神と「何でもタダ」という常識だけが、商用化された今のインターネットに持ち込まれているわけだ。

経済産業省の官僚がいうような、「ソフトウェアの開発と販売を商売にするのではなく、それに関連するサービスやコンテンツを売る形態に転換すべきだ」という、まんま「伽藍とバザール」の受け売りのような発言は、今のインターネットを巡る「タダ至上主義」の現状の中で常識化している、サービスやコンテンツに対価を払うことが忌避されているムードと、真っ向から衝突する。
現実問題として、有料のコンテンツ、あるいは無形のサービスが成功している事例が、いったいどれだけあるだろうか ? そうした現状に目をつぶり、「サービスやコンテンツを売る形態にすべきだ」といってみても、単なる机上の空論でしかない。


最初に取り上げた「セキュリティ」の話に戻ろう。確かに、ソースが公開されていることで、多くの人によるレビュー、あるいは改善の手が入る場合があるのは事実だ。しかし、それは対象となるソフトウェアが魅力的な存在だからで、あらゆるソフトウェアがソースを公開するだけでセキュアになり、必要な改善が世界各地の優秀な頭脳によってなされるかというと、そんなことはあるまい。
モノが魅力的だという認識がなければ、「互助」の精神は成立しない。魅力的でないものに労力を無償で差し出す人が、いったいどこにいるか。

つまり、オープンソースはソフトウェア開発にまつわる問題を瞬時に解決する、万能の打出の小槌ではないということだ。ソースを公開するだけですべての問題が雲散霧消するなら、昨年、大騒動を引き起こしたみずほ銀行のシステムなど、とっくにソースを公開して問題を解決しているだろう。実際問題として、ソースを公開してみたものの、てんで成果が上がっていないものも少なくないのではないか。

まして、経済産業省は霞ヶ関の常で「日の丸製品が世界を制覇する "プロジェクト X" 願望」にとりつかれているようで、「海外依存の体制が深刻な問題だ」「日本発のオープンソースが少ない」「日本の競争力確保の切り札」などと、「オープン」という言葉とは相容れそうにない発言を平気でしている。
本当に「オープンソース」であることが正しい道だと信じているのなら、こんな発言が出てくるはずがない。日本人だろうがアメリカ人だろうがロシア人だろうがインド人だろうが中国人だろうが韓国人だろうが、優れたものなら誰が書いたソースでも受け入れるのが、真の「オープンなマインド」というものだ。

ぶっちゃけた話、霞ヶ関の最終的な狙いは、日の丸製品が世界を独占する、IT 業界版の「大東亜共栄圏」を作ることではないのか。経済産業省は「オープン」という言葉の (おおっぴらには逆らいにくい) ポジティブなイメージに便乗して "いいとこ取り" をした挙句、日本の IT ゼネコンが世界を制覇するのを政策的に支援したいだけではないのか。

そんな姑息な手段を考え出すヒマがあったら、過去に日本政府、あるいは政府関連の組織が音頭をとってぶち上げて、その挙句に討ち死にした過去プロジェクトの失敗を洗い直す方が先決ではないのか。
いい事例として「シグマ計画」がある。アレはいったい、日本の IT 産業に何を残したのか。誰か検証してみたことはあるのだろうか。

どうも、日本政府の IT 政策の推移を見ていると、過去の失敗に謙虚に学ぶということをしていないと思う。太平洋戦争で負けが込んできたときの日本陸海軍と同じだ。まずなすべきことは、過去の失敗体験に学び、日本の IT 産業が世界各地のライバルに伍していくために必要な事柄を真摯に突き詰めることではないのだろうか。それを怠った挙句に強引に政策介入しても、業界のためにも、日本のためにもなるまい。

追記。
上の文章を書いた後で、今度は「電子政府」で使用する暗号化技術として国産品が多く推奨リストに載ったという話が入ってきた。もちろん、建前としては「公正な審査の結果」ということになっているのだろうが、ますます、経済産業省やその周辺が、IT 関連製品における「国産製品優遇」を進めているように思えてならない。
そんな「IT 鎖国」で勢力を伸ばしたところで、経済産業省の御威光が及ばない世界市場に伍していけるのだろうか。世界市場に伍していけるような製品なら、国がミエミエの政策的支援を行う必要などないわけで、どうも胡散臭いものを感じる。
正直、こんなことばかりやっていると、経済産業省が「エシュロン」の標的にされても文句はいえないだろう。

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