Opinion : 変えようと思わなければ変わらない (2003/11/2)
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なんだか、川柳のようなタイトルになってしまった。そんなつもりはなかったのだけれど。
街では、選挙カーが無意味な連呼を繰り返して、選挙ムードを煽っている。正直な話、選挙カーがどれだけ得票の増大に結びついているかどうか疑問だし、木村佳乃がポスターに出たから選挙に行く人が増えるかというと、これまた疑問だ。とはいえ、有権者である以上は選挙に行き、持てる権利をしっかりと行使すべきだと思う。
選挙に行かない人がしばしば使うエクスキューズとして「自分ひとりが投票したところで、何も変わりはしない」というものがあるが、それがとんでもなく誤った考え方だ、ということを書きたい。
いわゆる「組織票」を支える人は、状況がどうあれ、投票に行く。労組であれ特定業界であれ宗教団体であれ、その辺の事情は同じだ。しかし、そうした動機づけがない人は、いわゆる「浮動票」に分類され、選挙に行くかどうかは状況次第、ということになる。そして、先のエクスキューズを発するのも、たいていはこうした層だろう。
そこで、ちょっとした算数をやってみて欲しい。「浮動票」に属する人が選挙に行かないということは、それだけ、有効票に占める組織票の比率が増すということだ。いいかえれば、投票率の低下は、組織票を持つ候補者に対して、より有利に働くということになる。
たいていの場合、諦めムードの原因になるようなことを仕出かす政治家は、強力な組織票、あるいは地元や出身母体に対する利益誘導の力で議席を獲得しているものだから、投票率が下がって組織票の比率が増せば、それだけ、諦めムードの原因になるような政治家に有利に働き、結果として状況はさらに悪化する。少なくとも、良くはならない。
もっとも、対立候補に魅力的な人材がいるかどうか、という問題はある。日本の政治では往々にして、野党の方が分裂しやすく、結果として与党の組織力によって各個撃破されやすいという構図があるように思えるのだが、だからといって、投票に行かなくていいということの言い訳にはならない。たとえヘッポコな対立候補でも (失礼)、組織力に支えられた定番候補の議席を奪うというところに一定の価値はある。
いわゆる「55 年体制」の下では、当時の社会党が、こうした「与党の議席を奪うための政党」として何某かの価値を持っていたと思う。だが、あまりにも頑迷に過ぎて時代の変化をキャッチアップしなかった上に、拉致事件に対する対応で完璧に自爆してしまったため、今回の総選挙で、過去に分派した新社会党と同レベルの泡沫政党に落ちぶれる可能性が高い。つまり、社民党はもはや「死に体」といってもいい状態で、以前と同様の役割は期待できない。
その点、官僚出身者が少ない民主党は、うまくやれば、政権奪取とまではいわなくても、与党に冷や汗をかかせるだけの資格があると思うが、不安要素は旧社会党出身のグループだろうか。これが全体の足を引っ張ると、むしろ自分で自分の足を引っ張ることになる。
ともあれ、たとえ民主党が立てた対立候補が 100% 満足の行く候補者ではないとしても、もしあなたが現状を変えたいと思っているのであれば、かつての社会党に対するような "消極的支持" でもなんでもいいから、一票を投じるというのもひとつの考え方ではないだろうか。(必ず民主党の候補者に投票しろ、というつもりはないけれど)
とにかく、消極的でも積極的でもいいから、現状に不満があって変えたいと思っているのなら、変えたいという意思を何らかの形で示すべきで、そのために参政権があるのだということを忘れてはいけない。民主主義社会の下では、何も意思表示しないのは最大級の大罪だ。白票や無効票を投じるのもしかり。
自分が、ストックオプション課税の件で国税と喧嘩しているのも、実は根底にある考え方は同じだ。
この件では、今年 8 月の時点で 79 件の訴訟が提起されており、おそらく近いうちに 3 桁の大台に乗ると思われる。ひとつの案件でこんなに多数の税務訴訟が提起された事案は、日本の税務行政史上、類例がないと思われる。
だからといって、国税が少しは反省しているかというと、今の時点ではそういう傾向は見えない。最高裁まで行って敗訴して、それで少しは裁量行政体質を改めるかどうかというと、それも分からない。今回の騒動の責任を誰かが取るかというと、それも分からない。
しかし、「どうせ変わりっこない」といって、黙って唯々諾々と「お上」の言い分に従っているだけでは、未来永劫に何も変わらない。少なくとも、何かアクションを起こしてみなければ、変化の可能性そのものを消してしまうことになる。
とにかく行動を起こしてみて、それで多少なりとも変化が生じれば結果オーライだし、もしこの件では駄目だったとしても、納税者が当局の言いなりになるだけではないという歴史を作れば、将来に繋げることができるかもしれない。
特にマスコミ報道にそういう傾向が強いのだが、世の中のさまざまな問題に対して、非常にインスタントな解決を求める人が少なくない。たとえば「○○が総理になれば日本が変わる」とか「○○するだけでセキュリティ対策は完璧」とか「新商品の○○で某社が復活する」とか。でも、たいていの場合、変化というのはもっと緩やかなもので、むしろ、革命的な変化は後で反動を生むことが多いのではないだろうか。
過去にも何回か同じことを書いたような気がするが、一発逆転満塁ホームラン的な革命的変化を求める声は、ひとつ間違うとヒトラーのような独裁者の勃興、あるいは排外主義的な独善といった事態につながりかねない。これは過去の歴史をひも解いてみると、容易に理解できるハズだ。
そう考えると、選挙における参政権の行使に代表されるような、日常の地味な意思表示の積み重ねこそが、長期的に見て、本物の、長続きする変化や改革の萌芽になるのではないだろうか。短期的には「何も変わらない」かもしれないが、長期的には変わる可能性がある。しかし、何も行動しなければ、長期的にみても何も変わりっこないどころか、むしろ、事態がさらに悪化する可能性すらあるのだから。
というわけで、11/9 には皆で選挙に行こう。そして、誰が対象であれ、(組織の意思、あるいは勧誘に来た人の意思ではなく) 自分の意思をちゃんと表明しよう。せっかくの権利を行使しないのは愚かなことだ。
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