Opinion : 戦史に学ぶ・ガダルカナル編 (2004/3/29)
 

超不定期シリーズ「戦史に学ぶ」の第二弾として、ガダルカナル攻防戦を取り上げたい。

正直、ガダルカナルとその近辺で 1 年半にわたって展開された大消耗戦については、様々な方面で語り尽くされた感がある。いわく、敵の戦力を下算し過ぎた、いわく、戦力の逐次投入という愚を犯した、いわく、ラバウルからいきなり 1,000km も進出したのが間違っていた、etc, etc。

もちろん、こうした指摘は正しいと思うし、日本側が局地戦と見ていたせいで、アメリカ側の "本気" を見誤ったことも、事態を悲惨にした一因として指摘できる。だが、それ以前の根本的な問題として、こんな遠方まで進出したこと自体が間違っていたと思うわけだ。


PHP 文庫から出ている「太平洋戦争 日本海軍 戦場の教訓」という座談会形式の本があるのだが、この中で半藤一利氏 (先週に引き続きの登場) が、日本軍が中国や太平洋における戦争で、ひたすら遠方へ、遠方へと出ていった理由について、こんなことをおっしゃている。

そういう攻勢防御の思想を突き詰めていくと、ラバウルを確保するためにはガダルカナルということになるんですよ。ですから、フィジー攻略を断念してもガダルカナルから引き下がるというわけにはいかなかったんでしょう。
この戦略思想というのは、実は日本人特有のものだと、僕は思うんです。陸軍の場合も同じなんです。朝鮮を守るためには満州をとらなければいけない。満州を確保するためにはシベリアに出なければいけないという連鎖なんですね。そうやってぶんまわしを回していくと、どんどんどんどん外へ外へと出て行くわけです。

なるほど、気持ちとしては、こういう考え方に行き着くのは理解できなくもない。しかし、この考え方を突き詰めると、行き着く先に限度がなくなってしまう。どこまで広い地域を確保しても、その先のことを考えると歯止めがきかない。どこかで限界をわきまえて攻勢終末点を設定して、そこより内側をガッチリ守る、という戦略に切り替えないと、際限がなくなってしまう。攻勢防御の思想を突き詰めると、最後には世界全域を征服しないと収まらないが、そんなことはハナから不可能な相談だ。いまだかつて、単独で全世界を制覇した国家や指導者などいないのだから。

そもそも、日本海軍の戦備というものは、太平洋を押し渡ってくる米海軍に対して漸減作戦を仕掛けるために構築されたのではなかったのか。漸減によって、本来は優勢な米艦隊の戦力を、ある程度は日本側とタイに近いところまで持ち込んだところで艦隊決戦を仕掛けて撃滅し、日本海海戦と日露戦争の最終パターンを再現する、というのがそもそもの狙いだったのだろうに、実際にやっていることは正反対。自分からどんどん遠方に出ていって、地力に勝る米海軍に漸減されてしまった。

逆に、米豪遮断が必要だからガダルカナルまで進出したというなら、最初からそういう事態を想定した戦備が必要なわけで、どちらにしても、なんかチグハグな感じを拭えない。

そもそも、どんな戦でもそうだけれども、自分が想定しているシナリオに敵を引きずり込んで主導権を奪うのが常道だろうに、太平洋戦争の日本海軍は、自分が書いたシナリオを自分で御破算にして、敵方のシナリオで戦い、そして敗れた感がある。
もちろん、その背景には南方資源地帯の確保を狙って破れかぶれの戦争を始めたという事情があるにしろ、そんな事情で戦争を始めてしまったこと自体、当初のシナリオが独りよがりな内容だったと認めてしまったようなものではないか。日本が天然資源に乏しいのは明治の世から分かっていることで、なにも昭和になってから降って湧いた事情ではないはずだから。

こうなると、海軍戦略というより国家戦略の問題になってしまうが、そこまで手を広げると収拾がつかないので、ここではこれ以上追求しないことにする。


といったところでガダルカナルの話。
そもそも、日本海軍の戦備が (当初のドクトリンの関係で) こんな遠方まで出張ってきて戦争をするようにできていなかったのに、手持ちの戦力で実現可能な攻勢終末点を正しく認識せず、それをはるかに踏み越えて遠出をしてしまったことが、根本的な問題だったと思える。ラバウルからの距離がどうとかこうとかいう以前の問題で、本来、問題にされるべきなのは日本本土からの距離だったのではないか、と指摘してみたい。

常識的に考えれば、行動範囲を広げれば、それだけ手持ちの戦力が薄く、広く拡散する。しかも補給線は延びる一方で、それを支えるべき船腹の量は変わらない。おまけに、その大半が海上輸送ときているから、米海軍の潜水艦の脅威にさらされる。日本海軍が米海軍の潜水艦の脅威と自身の ASW 能力を正しく認識していなかったことが、さらに事態を悪くしているのはいうまでもない。

この、手持ちの資産で実現可能な行動範囲、終末点を正しく認識するというのは、何も戦争に限った話ではないと思う。たとえば、自分のようにフリーランスで仕事をしている人間は、リソースといっても自分一人分しかない (だから、Microsoft Project のようなソフトの出る幕がなくなってしまう - 苦笑)。となると、自分で引き受けられる仕事の範囲や分量も、このリソースの上限に縛られるわけで、その限度を超えた仕事を抱え込んだらパンクしてしまう。まさに、攻勢防御を際限なく展開して収拾がつかなくなった太平洋戦争と同じことになりかねない。

とはいえ、ついつい目先の仕事にダボハゼのように食いついてしまうのはフリーランスの宿命で、自分も独立したての頃は、頂いた仕事にはパッと食いついた (失礼) ものだ。この傾向はずいぶん長いこと続いていたので、特にここ 2 年ぐらいは、私生活をかなり犠牲にして仕事をしていた気配がある。
だが、特に精神的な面で無理がかかっているという自覚もあるので、自分の中の限界点を超えないように注意しながら、一定水準の品質をコンスタントに維持できるように注意したいものだと思う。仕事のし過ぎでブチ壊れてしまったら、洒落にならない。自分にとって、自分の代わりはいないのだから。

Contents
HOME
Works
Diary
Defence News
Opinion
About

| 記事一覧に戻る | HOME に戻る |