Opinion : センセーショナリズムの危険 (2004/4/5)
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今に始まったことではないが、新聞の TV 欄を見ると、ワイドショーの番組予告というやつは、むやみに「!」が多い。これがワイドショーの専売特許かと思ったら、某 IT 系ニュースサイトのごときは、ほとんど全部の記事の見出しで、末尾に「!」とか「!!」がついている。「!」というのは、よほど物凄い内容のときにだけつけるものかと思ったら、どうもつけるのが当たり前だと思っている人がいるらしい。
一般的に、「!」をつけて目立たせるというのは、それが注目するだけの価値があるからだという認識で間違ってないと思うが、手当たり次第に「!」をつけるということは、全部に注目して欲しいということか。しかし、それは欲張りの度が過ぎると思う。
見出しというやつはそもそも、記事を読んでもらえるか、あるいは番組を見てもらえるかを左右する要素だから、送り手の側としては、できるだけ人目をひきたいと考えるのは自然だ。新聞でも TV でも、建前論はどうあれ、民間の営利企業としてやっているのだから尚更だ。
ただ、こういう状況は往々にして、実は大したことがないのに目立たせて客引きする、誇大広告状態につながりやすい。さらに状況が悪化すると、「ニュースバリュー」という言葉に隠れて、本当に重要なニュースかどうかというよりも、人目をひきそうなニュースばかりを、刺激的な言葉とともに並べる危険性が出てくる。刺激というのは麻薬みたいなもんだから、あるレベルの刺激に慣れると、もっと強い刺激を求めるという無限ループにはまって、際限がなくなる。
たとえば、イラク関連のニュース。仮に、イラクで何か復興事業がうまくいっているというニュースや、米軍の兵士と現地の地元民が友誼を深めているというニュースと、米軍の兵士が爆弾事件で死傷したというニュースがあった場合、「人目をひく」観点からいけば、爆弾事件をデカデカと扱い、平和なニュースは捨てられるだろう。現代のマスコミに "No news is good news" という言葉はないのだから。
ましてや、アメリカの失敗をあげつらおうと鵜の目鷹の目になっているような報道機関なら、さらに扱いに差が出てくるだろう。
例の六本木ヒルズの回転ドア事件にしてもしかり。たまたま、場所が六本木ヒルズという話題の場所で、しかも被害に遭ったのが小さい子供だったからこそ、マスコミが食いついた。予想通り、後になってあちこちで「回転ドアで怪我人」という話がボロボロと出てきたけれども、それがどうして今まで話題にならなかったかといえば、マスコミが食いつくような「ニュースバリュー」というか「記号」を欠いていたからだろう。
さらに書けば、東名高速で追突事故を起こした酔っぱらいトラック運転手。あれも、たまたま事故で亡くなったのが小さな子供だったからマスコミが食いついたので、どこかのおっさんが亡くなったというニュースだったら、あれほど騒ぎになったかどうか。現に、亡くなった姉妹が映っている生前のビデオを何度も繰り返し放映して、悲劇感を煽った TV 局があった。
こういう事件性がない話でも、似たような例はある。
たとえば、ある種類の新商品を発売したメーカーがあった場合に、そのメーカーがどこなのかで、マスコミの扱いは確実に違う。いくらなんでも具体的な名前を挙げるのは憚られるが、同じ業界で、何をやってもマスコミの話題になるメーカーと、滅多なことでは話題にしてもらえないメーカーが存在するのは厳然たる事実だ。たとえ、両社が同じように画期的な商品を発売したのだとしても。
あるいは、「初の女性○○誕生」という類のニュースだってそうだ。真の意味での男女平等ということなら、以前から書いているように、それが男性だろうが女性だろうがいちいちニュースにならず、ごく自然に受け入れられるのが本来の姿。珍しいこと、話題性のあることだからニュースになるので、それをもって「平等」の象徴みたいに書かれるのは、なんだか抵抗を感じる。
つまり、現代マスコミで取り上げてもらえるかどうかは、そのニュースが持つ本質的な重要性よりも、世間受けするかどうかという通俗的な判断基準が大きく影響すると見て差し支えない。といっても、商業マスコミである以上、TV なら視聴率、新聞・雑誌なら部数を稼がないと商売にならないから、多少は仕方ない部分があるが、そこで自らの見識と良識で一線を引いて踏みとどまるか、際限なく刺激を求めて突っ走るかで、見識の有無が問われるのではなかろうか。
一方の受け手の側も、送り手の側にそういう事情があることを念頭に置いてマスコミ報道に接するぐらいで丁度いいのではないかと思う。そうしないと、マスコミに対して意図的に刺激的な情報を流して世論操作を企む輩が出てきたときに、まんまとひっかかることになる。
現に、国税庁の得意技である「申告漏れ」のリークを見ると、話題になっている会社、叩かれても仕方ないと思われそうな会社が対象になっているケースが非常に多い。さもなくば、誰でも名前を知っている著名人を生け贄にするかだ。
もし、同じような額の非違を発見した場合でも、一方が無名人、他方が著名人なら、国税は著名人の方の情報をマスコミに流して書き立てさせるだろう。それは、ニュースバリュー (さらに露骨にいえば、人目をひくかどうかの話題性や「あいつじゃ叩かれても仕方ない」という情緒への訴えかけ) がある相手を叩く方が、国税にとって利益が大きいからだ。最近だと、道路公団の周辺で「申告漏れ」として名前を出されるケースが相次いでいるが、これが数年前だったら、果たして同じことになったかどうか。
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そして、見出しでも記事の内容でも、刺激を求めて突っ走りすぎて、権力者に介入の隙を与えることこそが、「言論の自由」に対する危機を招いてしまう、いわば墓穴を掘る行為になる。例の「週刊文春」の一件にしても、平素は無節操に刺激的なニュースばかりを追求しているマスコミが、いったん権力の介入を招きそうになると突如として「知る権利」だの「言論の自由」だのと美辞麗句を振り回すのだから、どうも気持ち悪い。そういうのなら、最初から、権力に介入の口実を与えるようなことをしてはいけないのだ。
商業マスコミといえども、いや、商業マスコミだからこそ、センセーショナリズムに走り過ぎて自らの墓穴を掘る危険があることを、ちゃんと自覚した方がいいのではないかと思う。そうでないと、官製情報しか流さない国営マスコミがのさばる事態になりかねない。だいたい、国営マスコミばかりが威張っている国や、「情報省」という名前の役所があるような国に、ロクな国はない。
外出時に電車に乗って、週刊誌などの中吊り広告を見る度に、そんな思いが強まる今日この頃。
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