Opinion : ネットを悪者にして済む問題じゃない (2004/6/14)
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例の、佐世保で発生した小学生の殺人事件で、Web サイトをつくっていただの、危険な内容の小説を載せていただの、チャットでどうのこうの、太っていると書かれたからどうのと、ネット悪者論が幅をきかせている。ある程度予想された事態ではあるが、「週刊文春」のごときは「子供からインターネットを取り上げろ」と煽る始末。新聞・雑誌・TV というのは読者や視聴者が喜びそうな話を集めて構成されるものだから、こうなるのもむべなるかな。
ただ、この問題の本質は「簡単に人を殺してしまう子供」という点にあるので、ネットを悪者にして済む問題でもなければ、「心の教育」なんていう、いかにも霞ヶ関の文部官僚が考えそうな作文で解決する問題でもない。この手の事件があると、いきなり校長先生が全校集会を開いて「命を大切にしましょう」などと演説するのはお約束だけれども、むしろ生徒の方が、そうした行動に白々しさを感じてしまうのではなかろうか。
だいたい、こうした一連の報道の根底には「純真無垢な子供が、何でもアリのインターネットに接することで汚染されて、簡単に人を殺してしまうような危ない人格に育ってしまった」という前提があるのではないかと思われる。では、そういう記事を書いて (あるいは番組を作って) 煽っている人に訊いてみたいが、自分たちの子供時代が、そんなに純真無垢で天真爛漫なものだったのだろうか ?
だいたい、大人が考えているよりもずっと、子供は子供なりに悪知恵を働かせることもあるし、小ずるく立ち回ろうとすることもある。たとえば、「読書感想文コンクール」なんてものがあるけれども、これで賞を獲ろうと狙ったら、「どうすれば審査員受けする内容になるか」ぐらいのことを考える子供がいてもおかしくない。自分のように、わざわざ物議をかもしそうなことを書く例外もあるが、これは最初から賞狙いではないからだ。
たとえ小学生でも、どうすれば周囲の大人を喜ばせるか (あるいは周囲の大人の意に添うことができるか) を、いろいろと考えて実践しようとするものだ。特に「優等生」に分類される子供ほど、そうなりやすい傾向があるのではないか。
また、子供がネットに接したせいでおかしくなってしまったという批判についても、異論がある。そもそも、世の中は聖人君子の集まりではないから、怪しい話や物騒な話、イカれた話など、何でもある。インターネットの利用者といえども、そうした現実社会に生きている人間なのだから、現実社会で起こることはインターネットでも起こるし、逆もまたしかり。
ただ、見た目の匿名性の故に過激な部分が先鋭化する傾向はあるが、根底の部分は変わらない。「2 ちゃんねる」に「氏ね」と投稿するのと、誰かの自宅に夜中に石を投げ込んでガラスを割るのは、本質的に同じこと。だから、「サイバー」という言葉にとらわれて、ネットのことを「仮想現実」と思いこんでしまうのはとんだ勘違い。ネットは現実社会の縮図であり、それ以上のものでも、それ以下のものでもない。
いっちゃ悪いけれども (実は全然悪いと思ってない)、何かあるたびに「仮想現実と現実の区別がつかなくて云々」とワンパターンを繰り返す某ニュースキャスター氏が、実際にどれだけネットを利用したことがあるのか訊いてみたいものだ。少なくとも、ネットワーカー歴 13 年以上、メリットを享受する一方で事件や喧嘩もさんざん経験している自分の方が、真っ当な意見をいえるという自信がある。
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たとえ、無菌状態で育てようと周囲がいろいろ画策しても、子供たちが育てば最後は社会に出て行き、いいことも悪いことも入り乱れたドロドロの現実に放り込まれる。そのとき、無菌状態で育てられた人と、そうでない人とでは、どちらの方が現実に上手に折り合いをつけられるだろう ?
そういう場面で、トラブルに巻き込まれるのを未然に防ぐための能力を身につけさせるのも、ひとつの IT リテラシー、情報リテラシーというもの。それには、「ネット禁止」では話にならない。よくある「臭いものには蓋」では問題を解決できない。
それに、いつも書いているように、雑多なノイズの中から本物の情報、あるいは真実を判断するための材料を拾い出せるようにするのが本物の情報リテラシーであり、それを涵養するには、ある程度はノイズの多い状況で経験を積むする必要がある。人間でも植物でもなんでも、無菌状態で純粋培養されると、却って脆弱になるものだ。
そんなわけで、子供たちをネットから完全に切り離してみても何の解決にもならない。そもそも、「純真無垢な子供がネットで汚染された」という前提が間違っているのだから仕方ない。それに、一方で「世界最先端の IT 社会を」といっておきながら、次代をになう子供達をネット、あるいは IT といったものから隔離してしまったのでは、矛盾の塊だ。
だが、現在のネットワーク社会に、教育上好ましからざる内容があふれているのも事実。何の知識も対処方法も知らない状態で、いきなりそうした現実の中に無防備に放り込むのは、それはそれで問題がある。
つまり、"all or nothing" になってしまうから話がおかしくなるので、徐々に扉を広げていきながら、いいことばかりではないこと、悪いことにはどう対処すればいいのか、ネットは社会の縮図なのだから根本は人と人とのコミュニケーションにあること、といったことを段階的に教えていって、極端な行動に走らないように上手に適応する術を教えることこそが、本当に必要とされているのではないか。そういう意味では、ひょっとすると、IT 教育というのは性教育に似ているのかもしれない (おっと)
もっとも、日本の教育現場というのは基本的に「上のいうことに唯々諾々と従う人材を養成する」ことに重点が置かれているもので、これについては文部科学省も日教組も立場が一致している。つまり、子供たちが「自分で考える」ようになって欲しくないわけだ。と書くと異論が出まくるかもしれないが、個人的経験に照らした範囲では、こう判断せざるを得ない。
それに、段階的にネットの現実を教えていくべき立場にある教師、あるいは親が、一方でエロサイトや出会い系サイトに夢中になっていては立場がなくなるので、その辺の調整も難しそうだ。
ともあれ、「ネット禁止」「ネット悪者論」で問題が解決することは金輪際ありえないと、断言しておこう。
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