Opinion : 幸せの在処 (2005/1/10)
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なんだか、谷村有美のアルバムみたいなタイトルになってしまった。それはそれとして。
昨年を象徴する文字は「災」だったそうだが、自然災害の話を引き合いに出さずとも、相変わらず不安感の拭えない世相だ、といえる。景気の話に限らず、治安とか世界情勢とか、不安感を感じさせてくれるネタには事欠かない。
高度成長期だったら、「みんなで同じことをやって、みんなで幸せになって一億総中流のプチ幸せ」という方程式に乗っかっていればよかったが、現在では、かつての「勝利の方程式」が通用しなくなっている。だから、目指すべき「幸せ」の方向が見出せず、それが不安感を増幅させているのではないかと思う。
だけど。そもそも、目指すべき「幸せ」の形がみんな同じということ自体、何か間違っていたんじゃないかと思うのだが、どうだろう ?
多分、高度成長期から延々と信じられてきた、典型的な「勝利の方程式」あるいは「幸せの形」とは、こんなものじゃないかと思われる。
地元で名の通った公立高校、あるいは名門私立高校に進学
地元で名の通った国立大学、あるいは都市部の名門私立大学に進学
一部上場企業、中央官庁のキャリア、あるいは地元の役所に就職
20 代後半ぐらいで結婚して、一男一女をもうける
最初は借家でスタート、そのうち庭付きの一戸建てを買う
子供が同様の人生を繰り返して、以下、最初に戻る
そして、学校では「ここで頑張って "いい学校" に進学すれば、"いい会社" に就職できて幸せになるんだから」といわれて尻を叩かれ、大学では "いい会社" への就職を目指し、就職した会社や役所では出世レースに励むというわけだ。途中でこのレールから外れてしまえば、脱落者扱いされるのがオチ。
バブル崩壊以降、ここ 10 年ぐらいの間に、この「勝利の方程式」が瓦解してしまったのは確かだと思う。ところが、教育現場や親の意識なんていうのは大して変わっていなかったりするから、相変わらず「"いい学校" に進学すれば、"いい会社" に就職できて幸せになれる」といわれ続けている事例は多そうだ。しかし、現実がそうなっていないのは一目瞭然で、そうなれば白けてしまい、前途に希望を持てなくなっても不思議はない。だから、「自分の時価総額はゼロ円」なんていう新成人が現れるんじゃないかと。
また、学校でも会社でも、先に示したような人生街道、あるいは出世街道を実現するため、「将来のために、今はおとなしく無難に過ごさないと」といって、じっと我慢を強いられたりする。昔なら、この手の我慢は高い確率で報われただろうけれど、今だと我慢しただけで終わってしまう確率の方が高そうだ。
親や教師の側からすれば、自分達の世代が信じてきた、決まりきったレールに乗っかってしまう方が簡単で、安心感もあるだろう。また、政治や行政もこうした基本パターンが維持されることを前提にした仕組みになっているから、それが瓦解しそうになると慌てて元に戻そうとする (「少子化」や「ニート」であたふたしている霞ヶ関・永田町を見れば一目瞭然)。春になると毎年のように「東大合格者の出身校云々」なんて記事を載せる某週刊誌も罪深い。だが、いずれにしても、そこには当事者の視点が抜けているし、今となっては発想そのものが硬直化している。
私は齢 30 代後半に達しているが、未だに独身だし、もちろん子無し (独身で結婚経験もないのに子持ちだったら、それはそれで問題だけど…)。オトコの身だから周囲は比較的静かだが、これが女性なら、とうに「負け犬」呼ばわりされていたに違いない。
でも、それは先に挙げたような「ある程度の年齢になったら、結婚して子供がいるのが一番幸せ」という固定観念を基準にするからだ、といえる。多分、女性の方が、こういう固定化された「幸せの形」で判断され、余計な口出しを受ける機会が多いのではなかろうか。
そんなアホな。何を幸せと思うかなんて、人それぞれだろうに。自分の場合、フリーランスで仕事をしているから「安定」という言葉とは無縁だが、ありがたいことに、食うに困らない程度のお仕事はいただいている。おかげで、やりたいことをやって楽しく過ごせている。冒頭に書いたような「典型的な幸せの形」からはだいぶ外れているけれども、自分を不幸だと思ったことも、人生の脱落者だと思ったこともない。
といっても、これは自分なりの「幸せの形」であって、誰もがこれを「幸せな状態」だと思うかどうかは分からない。中には「未だに独身の子無しなんて、なんて不幸な」と思う向きもあるだろうが、そういう人には「はいそうですか。それで ?」と切り返せば終わりだ。我が強すぎるだろうか ?
結局、何がいけないのかといえば、多くの人が、型にはまった「勝利の方程式」や「幸せの形」にこだわりすぎて、自分が何をしたいのか、何をしているときが一番幸せなのか、何に対してもっとも熱中できるのか、ということを意識させようとしなかったことに原因が求められる。以前にも似たようなことを書いた気がするけれど…
人によって「幸せの形」はそれぞれだから、「とにかく平穏無事に過ごしたい」という人もいれば、自分みたいにイベント満載のドタバタを好む人もいる。どこかの社長みたいに、とにかく「カネカネカネ」という人もいる。稼ぎはそこそこでいいから、自由な時間や自分の趣味を大切にしたいという人もいる。営業職でモノを売ることに全精力を注ぐ人もいれば、戦闘機を飛ばすことに生きがいを感じている人もいる。
本人がそれで幸せだと思っていれば、公序良俗、あるいは倫理といった観点に反しない限り、どれだって正解になるハズだ。
大事なのは、ひとりひとりが自分にとっての幸せを見つけ出す能力を身につけて、それを実現するためのロードマップをつくれるようになること。目指す職業が異なれば、それを実現するための道程も違ってくるわけで、そこでは目的から逆算して途中に何をすればよいかを見極め、実現していくためのスキルや判断力が要る。
でも、今の学校で、そんなことをいっている人がどれだけいるだろうか ? 相変わらず、念仏のように「"いい学校" から "いい会社" に」とだけ繰り返している親や教師が、そこら辺にゴロゴロしていないだろうか ? いや、それを聞く側も、同じような考え方に囚われていないだろうか ?
世間体という観点から見てどうなのか、ではなくて、自分にとって何が一番幸せなのかをひとりひとりが真剣に考え、実現に向けて取り組むことこそが、もっとも大事だと思う。幸せの在処って、そういうことじゃないんだろうか ?
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