Opinion : 言論封殺はいかんだろう (2005/7/18)
 

千葉県船橋市立西図書館の司書が、「新しい歴史教科書をつくる会」と作家の井沢元彦氏らの書籍を勝手に処分してしまい、それに対して「つくる会」と井沢氏が提訴。この件について最高裁が、審理を高裁に差し戻すよう指示したのだそうだ。

「つくる会」については、個人的にはいい印象を持っていない。日本が悪いことばかりしていたと言い過ぎるのも問題だが、その反動なのかどうなのか、振子が逆方向に振れ過ぎたのではないか、と思えるからだ。

ただ、そういう個人的な好悪とは別に、今回の最高裁の判断は支持したいと思う。

どうして、自分と思想的に合わない人の主張を認める判断を支持するかといえば、理由は簡単。右だろうが左だろうが、好きなことをいえる、おおっぴらに議論できる、そういう社会を維持することが重要だと思うからだ。司書の個人的好悪が原因で図書館の書架に並ぶ本の内容が左右されるのは、ある種の言論封殺だといわざるを得ない。

だから、「つくる会」の本を書店に置くのを阻止するような運動も、あってはならないこと。それを買うか買わないかは、個人の自由に属する問題。


世の中、妙ちきりんなもので、「多様な選択肢が必要だ」と主張する人が提示する代替選択肢が、実は特定の分野に限られていたりする。その特定の範囲内でしか「多様な選択肢」とやらを認めないのであれば、それを「選択の自由」だなんていう美辞麗句で誤魔化さないでもらいたい。

あるいは、平素は「我が党は自由を護るための政党です」みたいなことをいっている政党が、党の方針に合わないことを公の場で発言した党員をいきなり除名してしまったりする。これでは、自由な発言ができないも同然。そんな党が、本当に我々の言論の自由を護ってくれるものかどうか、激しく疑問だ。

5 年ばかり前に「平和運動のあり方を考え直そう」で書いたけれども、自由な言論が満ちあふれているかのように見えるネットの世界でも、実は、特定の意見しか受け付けず、それ以外は消し去ってしまいたい、と考えて、隙あらば実行に移そうとする人は存在する。


実際問題として、「つくる会」にしろ、それに反対して「『つくる会』の教科書を採用しないように」と運動している人にしろ、学校教育を通じて自分たちが信奉する思想に子供たちを染めようと考えている点において、本質的違いはないのではないか。そのことを無視して、どちらか一方が正義だなんていえた義理でもないだろうに。

歴史の解釈なんていうのは、時代背景や個々の立場によって、いろいろな見方が出てきて当然のもの。ひとつの結論に収斂させるなんてできない相談で、そのことを理解することこそが、歴史の学習に際して重要なことなんじゃないか、と思う。

何年に何があったのかを文字列の羅列として記憶する、なんていうのは、歴史の学習において、重要なポイントではない。過去の歴史に関して特定の見方を覚え込むのも、これまた重要ではない。さまざまな出来事が、その後の歴史にどのように影響したのかを知ることや、そうした一連の経緯に対していろいろな見方ができるということ、そして、ひとつの事象をいろいろな見方から検証することを覚えるべき。

これも歴史の話だと思うから書いてしまうけれど、太平洋戦争における日本軍の人物、作戦、装備といったものに対する評価にしても、以前は「日本のやり方に問題はなかった、単に物量で負けただけだ」とか「技術では勝っていた、物量で負けた」とかいう類の議論がまかり通っていたけれども、やっと最近、もう少し冷静な視点から検証する動きが目立つようになってきた。そんな内容の書籍を、何冊も目にするようになったのは喜ばしい。内容の当否は別として、少なくとも、反対方向から物事を論じる土台にはなる。

どっちが正しいと思うかどうかは、論者や受け手によって違うと思う。ただ、さまざまな視点から見た意見がいろいろぶつかり合い、ああだこうだと議論できることこそが重要。誰もが日本軍マンセー、大日本帝国マンセー (あるいはその反対) になってしまったら、冷静な議論はできない。そういうことは独裁国家にやらせておけと。


だから、国家の、あるいは社会の「自由度」を推し量るには、どれだけ自由な物言いができ、どれだけ情報へのアクセスが認められているかをみるのが良いと思う。

たとえば、「戦争反対」を掲げてブッシュ大統領をこき下ろすことに必死になっている人が担ぐ、マイケル・ムーア監督。この人、「華氏 911」なんていう大統領おちょくり映画を作っていたが、そういうことができるのもアメリカならでは。もし、中国で江沢民元主席をネタにして、同じようなノリで映画なんぞ作った日には、あっという間に逮捕されてブタ箱行きになるのは間違いない。北朝鮮、あるいはフセイン政権時代のイラクについては、いまさら書くまでもないだろう。

「あの原子炉を叩け !」(ダン・マッキノン著、新潮文庫) を読むと、フセイン政権時代のイラクでは自由な情報伝達を抑えるため、国民は政府の許可なくタイプライターを持つことができなかったとある。いかにも、ありそうな話ではある。

アメリカには「情報公開法」というものがある。機密の壁に阻まれて公開されない資料も多いのは事実だが、いったん公開するとなったら、「ここまで公開するの !?」と仰天するレベルの情報が手に入る。実際、私がメールで取り寄せている国防総省関連の報道発表資料について話すと仰天されることが多いし、それ以外でも、さまざまなドキュメントが Web サイトを通じて手に入る。こういう情報公開については、アメリカの政府機関は大したものだと思う。

だから、極端な事例を引き合いに出すと、日本から反基地団体の親玉が訪米して、米軍の関係部局に情報を調べに行っても、ちゃんと資料を出してくれる。そして、それをネタにして「在日米軍の闇を暴く !」みたいなノリの本を出版しても、(それが機密資料をかっぱらって書いたのでもなければ) ワシントンから文句がつくことはない。
だが、こんなやり方が成立するのはアメリカならではの話。中国や北朝鮮だったら、ありえない。そもそも、調べに行ったところで資料が出てこないか、プロパガンダ文書ばかり出てくるのがオチ。

そういう見地からみると、特定の思想に染まった書籍だからといって、それを司書の独断で (いや、首長の命令だろうが市民からの要望だろうが同じことだが) 処分してしまうようなことは、「自由主義陣営」を標榜する国家では、あってはならないことだと思う。「右」の本も「左」の本も仲良く並んで、誰もが自由にアクセスできるようになっているのが、あるべき姿ではないのか。

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