Opinion : 安全対策と、経験や想定の限界 (2006/1/9)
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新年早々に重たい話題でナンだけれど、後知恵でいいたい放題に叩くのもいい加減にしたら ? といいたくなるような話が続いたので、その話題を。
ネタにしたい話は、3 件ある。まず、突風に電車が煽られた羽越本線の脱線事故、それから未曾有の豪雪でトラブルが多発している話、そして下関駅の火災の話。
まずは羽越線の脱線事故。
実のところ、鉄道にとって「風」というのは意外な鬼門で、東西線で電車が飛ばされるなど、過去にも似たような事故はいろいろ起きている。だからこそ、強風多発地点には風速計が設置されていて、一定以上の風速になると規制をかける。
東北新幹線なんかは、雪で止まることは滅多にないけれど、強風で規制がかかってダイヤが乱れることはある。常磐線も同様で、強風のせいで乗り損なったことがある。
鉄道だけでなく、道路も同じこと。高速道路は強風になると速度規制をかけるし、特に谷間、あるいは吹きさらしの橋は要注意ポイント。背の高いミニバンやトラックなんか、横風が強いとグラグラ揺れながら走っていたりするからオソロシイ。
ただ、どれをとっても基準になるのは風速計の設置場所だし、規制をかけるかどうかの閾値は、過去の経験から導き出された「危険ゾーン」の値。局所的に妙な風が高速で吹き荒れるのを全部検知しろといっても無理な相談だし、神経過敏になって規制をかけすぎれば、今度は「風に弱い○○」といって叩かれるのがオチ。結局、どっちに転んでも叩かれる。
まさか、風洞実験みたいに風上から煙を流して「流れの可視化」をやって、局所的に発生する渦や突風まで全部検知しろ、という訳にも行かないだろうに。
豪雪の話も同じこと。除雪費の予算編成にしろ、除雪車などの対策設備にしろ、あるいは建物の強度設計にしろ、過去の積雪データを基準にして「これぐらいが妥当だろう」といって立案したり、設計したりしている訳で、その予想範囲を超えた積雪があれば、ボロが出る。ボロが出たことを叩いても意味がないし、かといって過剰な対策は財政的に実現できない。
となれば、予想を超えたときに地域同士でリソースを融通するとか、手遅れにならないうちに自衛隊の災害派遣を要請するとかいった対応策をとることの方が重要。「首長が革新派で自衛隊嫌いなので、災害派遣の要請が遅れました」なんてことになったら、それはなんぼでも叩いていいと思うが。
下関駅の件にしても同様。「むしゃくしゃして放火した」という犯人は論外で、厳しく罰してやらないといけない。ただ、駅舎にスプリンクラーがなかった件についていえば、過去の火災事例を基にして基準を決めて、設置を義務付けるかどうかを判断する仕組みになっている。だから、基準から外れているせいで付けていなかったことを後知恵で非難するのは、いかがなものか。それなら、非難されるべきは基準の方だ。
今回の経験を受けて、「(駅のように) 公共性の高い施設は、面積などの基準に関係なく、スプリンクラーなど消火設備の設置を義務付ける」ということになるかもしれない。それはそれで、ひとつの教訓をくみ取ったことになる。この件では幸いにも死傷者が出ていないようだから、それで OK… とせざるを得ないのでは。
とどのつまり、強風にしても雪害にしても火災にしても、過去の事故や災害の経験に立脚して基準を決めている以上、まったく穴が生じないということはない。なにかと話題の耐震設計だって、過去の震災経験を基にして発展・強化させてきた経緯がある。それらを後知恵で批判するのは簡単なことだけれど、後知恵で文句をいうだけならサルでもできる。
これはなにも、災害対策に限った話ではない。多くの分野では、過去の経験に立脚した想定によって、安全策を講じたり、仕様を決めたりしている。
先日、越後湯沢の NASPA スキーガーデンに行ったら、設置されている 5 基のリフトのうち 3 基しか動いていなかった。閑散としていれば経費節減のためだなと思う (リフトは起点と終点に監視員を置かなければならないので、動かす電気代に加えて人件費もかかる) のだが、おおいに混んでいたのだから、そんな訳がない。
実は、搬器が雪につかえてしまって動かせず、除雪に手間をとられていたというのが真相らしい。これも、過去の経験に立脚した想定が外れた一例。
リフトやゴンドラの支柱の高さは、過去のデータから推測した積雪量と搬器自体の高さ、それと搬器と雪面の間のクリアランスと若干の余裕を足し算することで求められる。足し算の根拠になる基礎データは積雪量だから、それが過去のデータをはるかに上回るものになれば、余裕空間がなくなって搬器が雪面につかえてしまう。
かといって、支柱を高くし過ぎると、リフトが止まったときの救出が難しくなるから、むやみに高くすればいいってものでもない。実際、あるパト経験者の方に伺った話で「ゴンドラだと支柱が高いから、止まっても救援に行くのが難しくて云々」というのがある。さもありなん。
だから、夏山観光リフトを兼ねている、かつてなら「甲種・乙種兼用」に分類されていた特殊索道では、夏場は地面とのクリアランスを減らすために滑車の位置を下げる構造になっている。白馬五竜のアルプス第 1 ペアリフトが典型例。
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おっと、話が脱索した。違う、脱線した。
例を挙げればキリがないけれども、さまざまな分野で、似たようなことが起きているはず。それを後知恵で批判するのはたやすいことだけれども、平素から過剰な対策を講じることは余分なコストにつながるし、何も起こらなければ、今度はそのことが批判対象になる。
だから、企業などの安全担当者というのは、実に難しい立場といえる。何も問題が起こらなければ「安全対策のために、こんなに予算や人手は要らないのではないか」といわれるし、いざ何かトラブルや事故が起これば「安全担当者は何をやっていたんだ」とどやされる。
上司にどやされるだけならまだしも、JR 東日本のように「風の息づかいを感じていれば、事前に気配があったはずだ」と叩かれたりするのだから、たまらない。
これをもっともクリティカルな形にした立場が、国防に携わる関係者、かもしれない。平和な状態が続けば、抑止という概念が分かっていない人達に「税金の無駄だ。軍縮しろ」といわれるし、いざ戦火が降ってくれば「何をやってたんだ」といわれる。もっとも、自国の周辺がきな臭いのに「軍縮しろ」と主張するトンチンカンもいるけれど。
少なくとも、「過去の経験に基づく想定の範囲をはるかに超えていました」という事例と、明らかな人為的・意図的事例 - たとえば構造計算書偽造事件みたいな - は、異なる視点から評価する必要があるのではないだろうか。表層的な現象だけ捉えて「お粗末だ」「たるんどる」とバッシングしたところで、何の解決にもなりはしない。
そういえば、昨年 5 月の福知山線脱線事故では、「側面衝突に対応した安全設計が云々」といって軽量ステンレス車体をバッシングしていた人がいたけれども、あれは衝突安全ボディというものを分かっていない、強度の問題と衝撃吸収の問題を取り違えた暴論。イタリア海軍の戦艦みたいに、車体の両側面に円筒形の衝撃吸収構造物を入れろとでもいうのだろうか。
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