Opinion : 弱者は強者 ? (2006/11/27)
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世間一般に、「弱者」と認識されている立場と、「強者」と認識されている立場がある。たとえば、一般市民・中小企業は前者、国家権力・大企業は後者、といった具合に。そして、「強者に虐げられる弱者」という構図で見られることが多い。実際に過去の歴史をひもとくと、そういう事例は掃いて捨てるほど出てくる。
ただ、「弱者は常に正しい、強者は常に間違ってる」と決めてかかることはできない。どこかの blog みたいに「庶民の目線に立って書かれている」といって多数の固定読者が付く事例もあるけれど、庶民の目線だから常に正しいなんてことはないわけで。何度も書いているように、正しいかどうかを決めるのは立ち位置じゃなくて内容。
また、特にマスコミに顕著な傾向として、「強いもの、権力側にあるものを叩いておけば、とりあえず安心」という空気がある。確かに、権力、あるいは強者に対するチェック機能は必要。ただ、それが暴走して「強者を常に叩かなければならない」ということになってしまうと、シッチャカメッチャカな論理展開が発生する場合も出てくる。起承転結ならぬ起承転跳。
典型例が、「オナラに悩むサラリーマン」の話が、いきなり「小泉失政のツケ」になってしまった日刊ゲンダイ。ファッションとワンポイントの話から、なぜか最後に突如として「若者の右傾化」にすっ飛んだ朝日新聞も、強引に結論にこじつける点では似た部類に入るかも。
世の中のよからぬ話を、何でもかんでも政権批判などにこじつけようとするから、こういうギャグみたいな記事ができる。事実に立脚して、きちんと筋道立った論理展開を行った上で政権や大企業などの批判をするなら問題ないのに、それができない低水準の論説が多くなっていないか、と思える今日この頃。
こういう傾向が、弱者に対する無条件の擁護につながることもある。
朝日新聞で、夕張市の財政破綻に絡めて「市民や市職員の間に『住民追い出し計画だ』『この通りにやったら私たちは死んでしまう』と悲鳴の声があがっている」という記事があった。
でも、市の財政状況がどうなっているかぐらい、特に市の職員であれば、多少なりとも知っていておかしくないのでは。それに、市の財政規模に見合っているとは思えないハコモノが次々に登場するのを見ていて、にもかかわらず財政を悪化させるような政策を続けてきた市長や市議会議員を選挙で選んだ有権者にも、100% とはいわずとも、責任の一端はあるのでは。
それを全部、市の財政再建策、そしてその背後にいる総務省におっかぶせる記事の書き方は、明らかにバランスを欠いている。これも「強いもの、権力側にあるものを叩いておけば、とりあえず安心」メソッドの一例かと。
最近、何かと話題の学校をめぐる諸問題についてもしかり。
教師の資質だとか教育界のあり方だとか学校・子供の周辺状況だとか、あれやこれやと問題点があることは認めるけれども、何でもかんでも学校におっかぶせてしまう家庭の側に、何の責任もないといえるのか。それを「強いもの、権力側にあるものを叩いておけば、とりあえず安心」メソッドで、安倍政権の教育改革政策、あるいは教育基本法改正案の話に矮小化して反対ムードを煽ったりすれば、果たしてそれは正常なやり方といえるのかどうか。
この「強いもの、権力側にあるものを叩いておけば、とりあえず安心」メソッドを悪用すると、弱者のハズがそうともいいきれない、なんて事態につながるから始末が悪い。自らを「弱者」あるいは「被害者」というポジションに置いておけば、相対的に、対立する相手方に対する攻撃が支持を集めやすい。対立する側にしても、正面切って反撃するのが難しくなるから。
たとえば、Web サイトでも blog でも mixi 日記でもその他何でも、アメリカ政府、あるいはアメリカ大統領の悪口を書いている人は腐るほどいる。正当な批判ならまだしも、根拠があやふやな陰謀論を真に受けて、さも真実であるかのように吹きまくっている人も少なくない。
でも、だからといってアメリカ政府が仕返ししてくることはない。「911 陰謀論」の話を本にして出したからといって、アメリカ大統領が著者の「暗殺指令」を公言するようなことはない。これは日本でも同じで、よほどのことがなければ、政権側が正面切って反撃してくることはない。希有な例が TBS の「安倍サブリミナル映像」騒動だけれども、これはこれで「言論弾圧だ」といって反撃する利用の仕方がある。
誰かさんがよく煽っている、徒党を組んでの電話・FAX・メール攻撃にしても、それによって威力業務妨害か何かで訴えられて自分に累が及ぶようなことはない、と見切っているからこそできるのだろうし。
じゃあ、誰が相手でもそうやって叩けるのかというと、そんなことはない。相手によっては、国家元首自らの暗殺指令、あるいは抗議デモをやっていたら首筋に注射針がプスリ、なんてこともある (報道におけるタブーも、事情は似ているかな ?)。だから、反撃してこないと分かっている相手でなければ叩きづらい。
それに、アメリカのように所帯が大きい相手になれば、叩けば埃の一つや二つは常に出てくるものだから、ネタに事欠く心配もない。CIA だとか NSA だとか軍産複合体だとか、陰謀論のネタになりそうなアイテムもオールスターで揃ってる。だから、自らを「決して反撃されない弱者」という安全なポジションに置いたままで、有ること無いこと取り混ぜてなんぼでも、叩きのネタを製造できる。
もっとも、エスカレートして本物のテロ事件なんかやっちゃうと、FBI やデルタ・フォースや JDAM にお尻を追いかけられることになるけれど、それはまた別次元の話。
こうなると、自らを世間一般に「弱い」と認識されているポジションに置くことで、結果として好き放題に相手を叩くことができる「強い」ポジションに転化できるということになる。一体全体、どっちが「強者」なのやら。
ただし、「弱者」という立場を利用しているからこそ、その枠から出て正面から対等な論戦を挑むのは辛くなる。それ故に「弱者」という立場の中に逃げ込み続けて、思想的引きこもり状態になる。引きこもって、耳当たりのいい仲間内の理論しか聞こうとしないから、異論・反論を受け付けることができなくなる。かくして、blog のコメント欄開放なんてもってのほか、「話せば分かる」と主張するのに「話そうとしない」人ができあがる。
ただ、だからといって「弱者」がすべて、このメソッドに乗っかっているわけではないのが難しいところ。中には、本当に保護しなければならない弱者もいるわけだから、弱者というポジションを利用している人のせいで本物の弱者が迷惑するのも、それはそれで困る。
「弱者という立場を利用してボコ殴り」かどうかを識別する手がかりは、マスコミなどにガンガン露出して自らの弱者ぶりを強くアピールする一方で、大声を上げて相手を罵倒しているかどうかかな、と考えてみた。つまり、「露出が多くて目立ち、かつ声のでかい弱者」は注意してみた方がいいのではないか、ということ。本当の弱者は、えてして大声を上げる力すらなかったりするものだから。
あれ、そういえば、状況に応じて「先進国・超大国」と「発展途上国」を使い分けている国がどこかにあったような。なんとなく似たものを感じるな…
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