Opinion : 批判・反論を許せない人々 (2007/1/8)
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早いもので、kojii.net なるドメインを取得してサイトを立ち上げてから 5 年半、この「Opinion」は 300 回以上も書き続けている。
これだけの期間・回数があると、ときには大外しなこと、勘違いしたことを書いてしまったこともあるし、昔と今とでモノの見方・考え方が変わってきていることも、またいろいろあるはず。だからといって過去記事を消すのも問題があると思うので、あえて恥を晒したままにしているけれど。
自分のモノの見方や考え方に変化が生じるのは、さまざまな見方・考え方に接することで「そういう考え方もあったのか」と感心させられたり、あるいは何か突っ込みを頂戴して「しまった、詰めが甘かった」と冷や汗をかいたり、そんな経験が積み重なってきたから。実際、新しい記事をライブした後でログ解析をしてリファラを見ていると、あるいは読者の方からメールを頂戴すると、ずいぶんといろいろな読まれ方をしている様子。
ときには「はてなブックマーク」で「あたまがわるい」なんてタグをつけられたこともあるけれど、モノの見方は人それぞれ。だから、「確かに、この批判は納得できる」と思えば耳を傾けるし、「いや、それは違うよ」と思えば反論するし、「どうみても単なるイチャモン付けだろ」と思えばスルーする。ただしスルーするといっても、今後に論理展開に留意して、イチャモンをつけられないように意識するけれど。
あと、誤字・脱字・誤変換に関する突っ込みを頂戴することもある。でも、それだってありがたい指摘。とっとと直してライブし直すだけの話。
と、こんな調子で (主流派とはいいがたいような内容の論説を) 延々と書いてきているけれど、世の中、批判・反論などに対する耐性があまり強くないとか、ときには批判そのものを許せない人もいるらしい。
繰り返すけれど、モノの見方は人それぞれ。だから、どんなテーマであれ何がしかの論説を、それもインターネットを通じて世界に向けて公表すれば、いろいろな反応が返ってくるのは当然のこと。賛同の声も批判の声も、両方あるのが普通。なのに、賛同の声しか受け付けられない、あるいは賛同の声しか聞きたくない、という人がいる。
だから、そういう人が blog なんか開設していると、コメント欄が封鎖されていたり、承認制になっていたり、特定の条件に合う人しか投稿できないようになっていたり (例 : 「はてなダイアリー」における「はてな会員限定」)、なんてことになりがち。
もっとも、反論されるのが嫌だからコメント欄を封鎖している、という人ばかりではなくて、いちいち res するのが個人的に面倒だから最初からコメントを受けない、という人もいて、それはそれでひとつの考え方。だから、「コメ欄封鎖 = 反対意見お断り」と短絡してはいけないのだけれど、それはそれとして。
こんなことを書くと、多分、こういう反論が返ってくると思う。
そんなこといったって、2 ちゃんねらーとかネットイナゴとかネット右翼とか、訳の分からないことを書き込んで炎上させる奴がいるじゃないか。だから自衛せざるを得ないのだ。
そりゃまあ、そういう事例が存在することまでは否定しない。
でも、誰も彼もが炎上しているわけではないという事実は、ここで指摘しておきたい。なにも、「左がかった内容の blog をつくると、必ずネット右翼が襲来して炎上する」と決まっているわけではないのだから。
意図的かどうかに関係なく、炎上するための "火種" や "燃料" を投下してしまう人は、それなりの理由があるのが普通。さらに、「批判に対する耐性の弱さ」があるんじゃないかと思った。
批判に対する耐性がそこそこある人なら、「理詰めで相手を説得する」とか、もうちょっと悪知恵が働く人なら「最初に地雷を埋めておいて、相手をそこに追い込んで自爆させる」とか、とにかく正面切って落ち着いて対応できるもの。自分の考えをきちんと咀嚼してモノにしていれば、そういう対応が可能。
でも、とりあえず結論だけ最初に決まっていて、それに合うような耳あたりのいい論説や証言などを掻き集めて「○○でこう書いています」と受け売りしているだけだと、自分の言葉で語ることができない。だから、突っ込まれたときに筋道だった反論ができなくて、揚げ足取りに終始したり、逆切れして余計なことをいってしまったり、相手の人格批判に走ったり、暴発してとんでもない行動をやらかしたりして、結果として炎上への道を拓いてしまうことになりがち。
ましてや、最初から批判的な目で見られる可能性がある場に乗り出す、あるいは批判的な目で見られる可能性が高い内容の論説を展開するのであれば、事前に相応の理論武装や情報収集が必要なはず。それができないのに、自説を声高に語ることばかり考えて「みんな私の意見を聞きなさいっ」「私の意見を理解できないのは馬鹿」「愚民どもを私の高邁な意見で啓蒙してあげるから」的な見下し路線の立ち位置で語れば、そりゃ炎上もするでしょうが。
私見だけれど、こうやって見下し目線で語る人の多くは、自分の物知りぶり、あるいは有名人との関係などをひけらかして、自分を "大物" に見せようとする傾向があるように思える。それもある意味、自信のなさというか、バックボーンの脆弱さを隠蔽するための「増加装甲」なのかもしれない。
本当に自分に自信がある人は、わざわざ自分を大物に見せようとはしないと思うのだけれど。
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日本の「市民記者メディア」がどうもパッとしない一因は、こういった書き手の脆弱性にもあるんじゃないかと思える。大手の新聞社や TV 局なら、存在そのものがすでに「権威」だから、報じた内容をそのまま信じてもらいやすい (それもどうかと思うが)。それと比較すると「市民記者メディア」の方が厳しい視線に晒されやすいのは確か。
そうした状況の中で、「市民記者」という言葉に飛びついて自説を語る機会に利用するのは個人の自由だけれど、その割には物事を論じる上での足腰がしっかりしていない人がいませんか、一方的に個人的な思い入れや感情論 *だけで* まくし立てる人がいませんか、と。
しかも、本当に理論武装や勉強がしっかりしている人は、わざわざ「市民記者メディア」に馳せ参じたりしないで自分の Web サイトや blog で書きたいことを書いていることが多いから、ますます「市民記者」の質が上がらない。これはもう実名とか匿名とかいう以前の問題で、そもそも一人一人の書き手に「批判・反論への耐性」「批判・反論に対応できるだけの理論武装とお勉強」ができていなければ話にならないでしょうが、鳥越編集長。
せめて、記事を書いた後で反対側の立場から検討して、突っ込みどころがないかどうか点検するだけでも違うはず。その結果、記事の方向性を直すか、同じ路線のままで理論武装を補強するかはケース・バイ・ケースだけれども、後者なら相応のリアクションがあることは覚悟して、対応できるように備えるのが本来の姿、じゃないのかなあ。
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