Opinion : "反戦軍事学" より先に必要なこと (2007/3/12)
 

追記 (2007/3/21)
なんだか最近、「反戦軍事学」というキーワードでお越しになる方が増えてきたようなので。
朝日新書から出ている「反戦軍事学」というタイトルの書籍については、blog の方で言及しておいたので、よろしかったら御覧になってみてください。

軍事問題については、一般的に護憲派よりも改憲派のほうが詳しく、論争にも強いことが多いようです」(マガジン 9 条)

確かにそれはその通り。正しい知識や情報を持っていないと、「PAC-3 は攻撃兵器」とかいう類のトンチンカンな批判をして、却って自ら墓穴を掘る結果になってしまう。正しい知識があれば、少なくとも「知らない」あるいは「勘違い」に起因する墓穴堀りは回避しやすくなる。

ただし、そこに落とし穴がある。「正しい知識を得ることが必要」という考え方は正しいけれど、「正しい知識を得るだけで論戦に勝てる」と思ったら大間違い。


安全保障問題を論じる上で、たとえば各国の軍事力に関する組織、編成、戦闘序列、はたまた装備の数量やスペック、調達価格、ドクトリンといった情報を知ることは、もちろん重要。ただし、これらはあくまで「データ」だから、それを実際に目的達成に活かすには、手に入れたデータを解釈して意味づけを行い、「理念」や「具体的な政策」といった形にまとめる必要がある。つまり、data を information という形で整理して、そこから intelligence を導き出す作業が必要、ということ。

たとえば、「日本に弾道ミサイルを指向している国がある」「その弾道ミサイルには NBC 兵器が搭載されている可能性がある」というのは、ひとつのデータ。その弾道ミサイルへの対抗手段に関する情報も、同様にひとつのデータ。

そこで、「弾道ミサイルの脅威」という課題に対して、「日本も同様に大量破壊兵器と弾道ミサイルで対抗する」「MD のような防衛システムで対抗する」「丸腰で対応する」などなどの対応策を評価・検討して、どの方策がもっとも優れているかを判断することになる。
判断の材料として、たとえば MD であればイージス BMD だとか GBI だとか、あるいは ABL だとかいう類の BMDS (Ballistic Missile Defence System) 構成エレメントに関して、どれなら現実的に対応できるか、熟成度はどの程度か、導入・運用にかかるコストはどの程度か、付随する政治的・経済的リスクはどうか (これ重要)、といった情報を集めることで、判断の材料ができる。

だから、データだけ知っていても正しい結論は導き出せないので、そのデータから正しい結論を導き出すための触媒が必要になるはず。それが何かといえば、リアリズム、あるいは現実的思考ということになるんじゃないかと思う。

つまり、理想は理想として措いておいて、まずは目の前の現実にきちんと向き合うこと。その現実に即した対応策を、逃避することなく導き出すこと。そして、現実と理想の間を結ぶロードマップを作ること。それができないで理想論ばかり振りかざしていると、「お花畑」といって笑われる。

このように定義される「リアリズム」を欠いていると、「結論先にありき」「まず叩きありき」の態度に終始してしまい、せっかく集めたデータを都合良く歪曲してしまったり、最初から決まっている結論に合うような "都合のいいデータ" だけをピックアップしてしまったり、ということになりがち。

それでは正しい判断ができないし、「反戦と軍事学」の例についていえば、軍事学に関する知識も役に立たなくなる。すると、「やっぱり論戦に勝てませんでした」ということになりかねない。最悪なのは、その結果として「やっぱり軍事について勉強したって無駄 !」「我々の高邁な思想を実現するためなら手段を選ぶべきではない !」といって尖鋭化、過激化すること。実際、平和主義者を自称する人がむやみに攻撃的になるのは、案外とよくあること。


結局のところ、「知識」と「知恵」はイコールではない、という当たり前のところに落ち着くんじゃないだろうか。

知識は本を読んだり Web 検索をかけたりすることでそれなりに入手できるにしても、その知識を土台にして「知恵」につなげるには、さまざまな人とのやりとり、あるいは自らの経験などが関わってくるはず。その部分で偏りや不足があったり、リアリズムを欠いた取り組みをやらかしたりすれば、得られるものは "間違った知恵" になってしまう。

冒頭の話にしても、「反戦派が議論に勝つために、正しい知識を手に入れよう」というのは、いささか本末転倒、結論先行型の感がある。データが仮に正しいものだとしても、それを消化する課程でバイアスがかかれば、バイアスのかかった結論しか出てこない。おまけに既存の事例を見ていると、知識を得るためのソースの選択を間違えた、あるいはソースの内容に問題があった、なんて事例もある様子。

そもそも本来であれば、「紛争・戦争の抑止を図るために、どういう対応をするのが最善なのか」を模索するのが最終目的になるはず。ところが、安全保障問題に関する知識を得ることが「ネット右翼 (本当にそういう人種が実在するかどうかは別の問題なので、措いておく) にやりこめられないようにして自分たちの主張を通すには、相手と同じレベルの知識が必要」という程度の動機なのだとしたら、その知識を現実の主張や政策に落とし込む時点でボロが出て、結果的にやりこめられてしまうのでは。

まず、知識がどうこうとかいう前に目の前の現実に向き合う態度が問題なんで、それをどうにかした方がいいと思うのだけれど、なんともかんとも。

ちなみに私の場合、「軍事面でのバランスを取って抑止を図りつつ、対話のチャネルも維持する」「軍事力だけでなく、政治的・経済的・文化な手段も考える」といったところに落ち着く。場合によっては、「相手にわざと軍事費を大量に使わせる方向に仕向けて、経済的に疲弊させる」なんて戦略もあり。

Contents
HOME
Works
Diary
Defence News
Opinion
About

| 記事一覧に戻る | HOME に戻る |