Opinion : 良いウソ・悪いウソ・普通のウソ (2007/4/2)
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と、なにやら「欽ドン」みたいなタイトルにしてしまった。
でかい仕事を抱えてテンパっていて、さらに日に日に減っていく積雪のことが気がかりで、今年は気の効いたエイプリルフールを考える余裕が全然なかった。OIF (Operation Iraqi Freedom) が真っ盛りの 2003 年には「クサイ軍団」なんていうクサいネタを飛ばしたものだけれど。
じゃあ、気の効いたエイプリルフールって何だろう。と考えると、やはりそこには「お笑いの精神」がつきものなのだと思う。「どう見てもネタだよね」と思いつつ、それでもクスリと笑ってしまうような。自分みたいにお固くて融通が利かない性格だと、そういうネタを思いつくのは至難の業。
だいたい、普通は子供の頃から「ウソはいけません」といわれて育てられるものだけれど、水が清すぎると魚も棲まない、というのも一面の真理。普段は「ウソ = 悪いこと」という考え方の下で暮らしているからこそ、年に一度くらいはウソをついて発散してもいいじゃないか、という主張にも理はある。
そういう考えがあったのかどうか知らないけれど、ガス抜きとしてエイプリルフールという習慣を考え出したのだとしたら、大したものだと思う。といっても、ウソにもいろいろあるわけで、明らかにウソが原因で人に迷惑がかかるようなのは、たとえエイプリルフールであってもよろしくない。
たとえば、私が「スキー検定で 1 級をとった」とウソをついたとする。後でウソだとばれたところで、自分がヘタな滑りを披露して馬脚をあらわし、恥ずかしい思いをする程度だから、それだけなら大問題にはならない。もっとも、1 級を取ったとウソをついてスクールの先生になったりすれば、また話は別だけれど。
では、「結婚します」というウソはどうか。これは波及する影響がかなりあるかもしれないので、個人的にはあまりよろしくない。若い頃ならまだしも、不惑を迎えてからこんなウソをつくと、周囲を不必要にぬか喜びさせてしまって、後でウソだとばれたときに袋叩きに遭いかねない。却下。
これが、政治家だとか、あるいは最高経営責任者だとかいう類の、一挙手一投足でも周囲にいろいろ影響を及ぼしてしまう立場になると、うかつにウソなんてつけない。逆に「ウソも方便」というやつで、場合によっては物事をスムーズに運ぶためにウソをつく、なんてこともあり得る。
たとえば、新製品の発表や会社の合併・買収なんかで、事前にマスコミにすっぱ抜かれたときに「そんな話はありません」と否定、その直後に正式発表するのはよくあるパターン。スクープに対して認めてしまうと、その時点で公式な話になって周囲も公式に対応できるようになってしまう。だから、正式発表までは公式にできない、という観点からすると仕方ないウソ。
場合によっては、ウソが原因で会社が潰れたり、戦争に巻き込まれたり、国を滅ぼしてしまったり、なんてこともあるかも知れない。だから、ウソが意図的なものだったかどうかだけじゃなくて、そのウソが及ぼす影響も、ウソの良い・悪い・普通を区別する基準になるんじゃないかなと。
結局のところ、ウソをついても許されるのは「笑って済ませることができるケース」か、そうでなければ「裏で何か正しい目的を抱えていて、それを実現するためにやむなくウソをつくケース」なんじゃないかと思う。
といっても程度問題なので、「自分が信じていることは正しいのだから、それを実現するためならどんなウソをついても許される」となってしまうと、それはただの拡大解釈。だいたい、そういうことをいう人に限って「正しいこと」の中身自体が怪しかったりする。
あと、調査が足りなかったとか、あるいは単なるうっかりミスとかいう事情で、ウソをつくつもりはなかったのに結果としてウソになってしまったケース。内容と程度にもよるけれど、「きゃー間違えちゃったごめんなさい」で済む程度であれば、なんとか許してもらえる。いや、許してもらえると助かる。
逆に、人の生死やおカネの動き、果ては企業や国家の行く末が絡むようなクリティカルな場面では、そう簡単にウソなんてつくもんじゃない、という話になる。
学歴や肩書の詐称も、そういう意味では罪深い。なぜなら、学歴や肩書は周囲の反応に影響しやすくて、それだけ見て「へえー」あるいは「ははーっ」となってしまう人が少なくないから。それに、職業選択やら何やら、人の生死やお金の動きにも間接的に関わってくることが多いから、やはり学歴や身分の詐称はよくない。
それに、学歴や身分の詐称でうまいこと切り抜けると引っ込みがつかなくなり、ウソにウソを重ねていって逃げ場がなくなり、二進も三進も行かなくなったところで大爆発、なんてことになりがち。まさに、渡辺淳一氏の「雲の階段」の世界を地で行ってしまう。
だから、最初から私利私欲のために意図的にウソをついていて、かつ、その内容が影響力の大きいものだったりすると、最悪。ウソだけじゃなくて、意図的な誤解・曲解でも同じこと。
物書きだったら著作、新聞記者だったら紙面、テレビ局だったら番組で、想定している読者や視聴者に対するウケを真実よりも優先してしまい、「こういう内容にすれば (読者 | 視聴者) が喜ぶだろう」といって事実と反することを意図的に取り上げるのは、もう最悪の禁じ手ってことになる。
そういう意味では、テレビ番組の「やらせ」や「捏造」は極めて罪が大きいといえる。今でも「テレビでこういっていたから」といって鵜呑みにしてしまう人は少なくないから、それがウソだったとなれば、万単位の人に影響が出る。現に、「あるある」の捏造事件では単にテレビ局の信用問題にとどまらず、納豆業界に上げたり下げたりのトバッチリを及ぼしてしまった。納豆業界には何の罪もないのに、まったく迷惑な話。
これが、外国要人の発言を日本語に訳すときに字幕の内容を意図的に曲解したとでもなれば、控えめに見積もっても外交問題になる可能性があるし、相手と事と次第によっては戦争の原因にすらなり得る。国によっては、外国要人の発言をひん曲げて流したことでデモや焼き討ち事件が多発して、政府の動向にまで影響する場合もあるだろうし。今の日本では、そこまで国民的にエキサイトする可能性は低いだろうけれど、過去には「日比谷焼き討ち事件」みたいなのがあったぐらいだから、油断は禁物。
始末が悪いのは、新聞やテレビだと、「やらせ」や「捏造」が発覚しても国がうかつに手を出せないこと。ヘタに「発禁」とか「電波停止」だとかいう処分に走ると、たちまち「言論の自由や、知る権利の侵害だ」といって袋叩きに遭ってしまう。となると、悪いことをしても痛い目に遭いにくいから、自浄作用が働きにくい。
普通の企業でウソや悪事が露見すれば、世間から大バッシングに遭ったり当局から怒られたり、ヘタするとアメリカの某社みたいに 5,000 万ドルも罰金を払わされたりする。ところが、マスコミだと「言論の自由」をタテにするせいで外的圧力がかかりにくいから、結果として有耶無耶になってしまうのはまずいんじゃないか。本来なら、そういう状況を意識して、人一倍は気を引き締めてかからないといけない立場なのに。
そんなわけで。
「ウソは一服の清涼剤」という場面があることまでは否定しないけれど、それはあくまで、ウソをウソだと見抜いて笑い飛ばすことができて、かつ、ウソによる波及効果が極めて限られる場面に限るんじゃないかなあと。
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