Opinion : 民主主義と多数決 (2007/4/16)
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先日、衆議院で国民投票法案が可決された。なんでも、野党は「数の横暴だ」といって非難している由。この件に限らず、お気に召さない法案が可決されたときには、毎度のように出てくるお約束のセリフ。もうひとつ、永田町に限らずそれ以外の場所でもチョイチョイ出てくるのが、「少数意見も尊重するのが民主主義だ」という類の発言。
でも、そんな野党も自分たちが与党になれば、やはり多数決で自分たちの法案を通そうとするだろうし、そんなときに「いや、少数意見を尊重するのが民主主義じゃね ?」なんてことはいわないと思う。「少数意見も尊重するのが民主主義だ」と主張する「○○反対運動」の人も、いざ自分たちが多数派に回れば「自分たちの運動は多数に支持されているのだから正しい」と宗旨替えするのがオチじゃないだろうか。
と、これだけだと Opinion が段落 2 個で終わってしまうので、もうちょっと話を引っ張ることにして。
政治の世界だけじゃなく、たとえば学校なんかでも「民主主義とは多数決である」なんてことを口にする人がいる。議会や会議だけじゃなくて、選挙も得票が多い人が当選するわけだから、これも一種の多数決といえる。飛行機が慣性航法装置を 3 基搭載して、それらの間で誤差が出たときには多数決方式で、どの数字を採用するか決める例もある。人間の世界とは違う話だけれど。
つまり、一般的には「多数が賛成するのであれば、それは多分正しいのだろう」という前提があるからこそ、多数決原理が成り立つ。でも、こういうことを書くと「過去の歴史をひもといてみると、常に多数派が正しかったとは限らない」と噛みつく人が出てくる。仰せの通り、その通り。
ただ、そういう主張をする人の場合、往々にして「だから少数意見が正しい、我々の言い分を受け入れるべきだ」と続くわけだけれど、ちょっと待った。「過去の歴史では、少数派が正しかったことがある」が、「現時点で問題になっている案件でも少数派が正しい」に直結するものだろうか。両者の間には「少数派」という以外の共通点はないのに。
今回の記事を書くために、「民主主義」というキーワードでググってみたら、最初に出てきたのが Wikipedia。その初っ端に、こんな記述があった。
民主主義として把握する場合には、最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意見を持つ者同士の互譲をも含む理性的対話が存在することをもって正当とする点で異なると主張される。
つまり、多数派は数でごり押しするんじゃなくて、少数派の言い分にも耳を傾けなさいよ、ということか。
これを現実の話に適用すると、たとえば法律の改正、何か新しい法案が出てきて与野党の意見が対立したときに、単にゼロサム・ゲームにするなよ、という話なんだと思う。現在の永田町みたいに与党が優勢であれば、与党が出す法案が通る可能性が高い。でも、その際に与党は野党側の言い分にも耳を傾けて、まずいところがあれば修正に応じることも必要でしょ、と。
あれこれと修正に応じているうちに本質を忘れて、違う方向に変質してしまうんじゃないの… という話は措いておくとして、まずいところがあれば直す、という姿勢自体は必要だと思う。ただ、「互譲をも含む理性的対話」は双方の当事者がいないと成り立たない。仮に与党が「まずいところがあれば直すよ」といったところで、野党がゼロサム・ゲームになって「法案をつぶすのが目標」の一点張りだと、互譲もなにもあったもんじゃない。
逆も同様で、それだからこそ「審議は尽くした」と毎度のように口にする与党関係者もどうかと思う。どうせなら、「野党が対話に応じないのだから、もう採決するしかない」といっちゃえばいいものを (おい)
国政に限らず、さまざまな方面に見られる話だけれど、この国では「○○反対運動」に際して仲間割れがよく起きる。原水禁と原水協が典型例だけれど、探すと他にもいろいろ出てくると思う。過激派の内ゲバなんてのもあったけれど。
先日の都知事選でも、共産党が推す吉田万三氏と、市民団体 (後に民主党・社民党なども加わる) が推す浅野史郎氏が、とうとう最後まで一本化できずにバラバラに立候補。その結果、現職以外の対立候補全員の得票を合わせても現職に負ける、という結果に終わった。そしたら未だに某所では、本来の共通の敵であるはずの石原都知事はそっちのけで、吉田支持者と浅野支持者が罵倒合戦を展開している由。
もともと目的を同じくするはずの陣営同士ですらこんな調子なのに、ましてや対立する勢力との間で「互譲をも含む理性的対話」ができるんかいな、と疑問に思ってしまった。「互譲をも含む理性的対話」が成立してこその、少数意見の尊重だろうに。
と書いたところでよくよく考えてみたら、共通の敵を前にして仲間割れするのは、日本の専売特許ではなかった。中東あたりでは日常的に発生している現象だったのだ。イラクしかり、パレスチナしかり。あの辺では日本以上に「小異を捨てて大同につく」ことができない人が多いから、そりゃ戦乱が絶えないわけだ。
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そういう種類の人が「数の横暴に反対」「少数派の意見に耳を傾けろ」と主張しても、こちらの耳には「とにかく我々の意見を無条件で受け入れろ」と翻訳されて聞こえる。
第一、自ら好き好んで内輪もめして、少数派にとどまっている側面もあるだろうに。数の横暴に対決するためならもっと団結したらどうよ、と思うし、政党であれば、自分たちの党や政策を有権者に売り込むのが下手なんじゃないの、と。そっちのことは棚に上げて、少数派であることを売りにして (?) 数の横暴だとか少数意見の尊重だとかいうのってどうなのよ。
個人的には、選挙や議会といった制度を通して実現する民主主義政治は構造的に、「極端に良くなることも、極端に悪くなることも起きにくい、"どちらかというとマシな政策" の範囲内で振れ幅を生じることが多い制度」なんだと思っている。
だから、「互譲をも含む理性的対話」ができない人、ゼロサム・ゲームに走って「全面勝利以外は受け付けない」となってしまう人、ちょっと意見が合わないからといってすぐに相手を排斥して仲間割れする人は、そもそも民主主義ってものが分かってないのかも知れない。
だいたい、何百万、何千万も人がいれば、いろいろな考え方をする人が出てくるのは当然だし、立場が変わればモノの見方だって変わる。そんな状況下で全員一致を望むなんて不可能な相談だし、そんなことになったら気持ち悪い。となれば、「少数派より多数派の考えの方がマシなんだろう」という前提の下で多数決原理を使い、ただしその過程でゼロサム・ゲームにならない対話を通じた軌道修正をかける、という以外にどんな選択肢があるの ?
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