Opinion : 死刑廃止論議について考えてみた (2007/7/2)
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自分は法律の専門家ではないから、どうしても「筋論」的な話に終始してしまうし、とんでもない勘違いが含まれているかもしれないけれど。それでも、無謀にも書いてみようと思った。
理想論からいえば、「人殺しはいけないことだから、やってはいけません」で済むに越したことはない。でも、それで万事が片付くのなら、警察は要らない。現実には犯罪を犯す人がいるし、そうなれば、なにがしかの刑罰も必要。
犯した罪を償うという考え方からすると、罪によって損なわれたものを取り戻すまで働け、という考え方もできる。横領や窃盗みたいな金銭的な被害であれば、それでもいいかなと思うが、傷害や殺人となると、そうはいかない。だから、「他人の生命を殺めたものは自らも同等に」ということで死刑にする、という考え方も出てくる。
どう逆立ちしても、加害者を弁護するという立場と、被害者 (殺人事件であれば被害者の遺族も) の間で考え方が対立する事態は避けられない。私は独身だから「妻」や「子供」はいないけれども、家族を殺されても黙って平然としてろ、といわれたら、多分キレる。だからといって、私的な仇討ちに走ったのでは法治国家が成立しないから、法制度の下で適切な裁きを与えてもらうよう願うしかないわけで。そのために検事や裁判官がいる。
「自分の家族を殺した奴は、同様に死刑にならないと納得できない」というのは感情として自然なことだけれども、感情で量刑を決めるのは、いくらなんでもまずい。だから刑法というものがあって、かくかくしかじかの罪を犯したものは、これこれの刑に処す」と決めておく必要がある。それは分かる。
ただし実際のところ、人を殺してしまったといっても、事情は千差万別。本当にうっかりミスによる場合もあれば、酔っぱらい運転で追突事故を起こして子供を死なせてしまった、なんていう事例もある。ましてや、テロ事件なんていうのは最初から人殺しが前提になっているようなものだから、さらに罪が重い。
だから、その辺の事情を斟酌して量刑の内容を加減する制度にするのは、理想的かどうかはともかく、もっとも現実的な落としどころではないかと考えている。執行猶予という制度があるのも同じ考え方によるのだと思ったけれど、もし間違ってたら御指摘をいただけると嬉しい。
逆に、はなから確信犯であるとか、殺人事件を起こしたことに対して何も反省の色が見られないとかいうことであれば、それはもう厳罰に処すのも仕方ないだろうと。だから、意図的にトンでもない殺人事件を起こしたものは死刑に処す、という仕組みを残すことは、ある種の抑止力としては仕方ないのかなと思う。何をやっても死刑にはなりません、ということになると、それに便乗するスットコドッコイが出てこないとも限らないから。
なんてことを書くと、「いや、しかし加害者の人権も守らなければならない」てなことを主張する人がいるかもしれない。では、加害者の人権って何だろう。
殺人事件の容疑者として逮捕されたが最後、弁明の機会も何も与えられず、一方的に死刑にされることにでもなれば、それは問題がある。現実問題として冤罪事件は起きているし、人間のやることだからミスがないとも限らない。となれば、安全弁として弁護士をつける制度も三審制も必要なのは確か。
ただ、それでも「犯した罪に見合った刑を科す」という考え方までも、人権という言葉の下で否定してしまうのはどうかと思う。本当に「人権が守られていない事例」とは、北朝鮮の強制収容所みたいなもののことをいうんじゃないの ?
刑事事件には加害者とともに被害者もいるわけだから、加害者の立場もあれば被害者の立場もある。どちらか一方だけをゴリ押しすれば収拾がつかなくなるから、最適な落としどころを模索する必要がある。それに、先に書いたように、同じように人が亡くなった事例でも事情はいろいろあるし。
そういう状況を感情によらずに体系立てて処理する手段として、法制度や検事・弁護士・裁判官という立場があるわけで。こういう仕組みが確立しているのは、加害者の立場に対する精一杯の配慮だと思うのだけれど。
ひょっとすると、死刑制度に反対する人は、「死刑とは国家による合法的殺人である」とかいう類の考え方が強いのかもしれない。でもねぇ。
何の罪も犯していない人、あるいは罪の内容に対して死刑という刑罰が重すぎる事例であれば、そういうこともいえるかもしれない。なるほど、政治犯は無条件に死刑 (ないしはそれに匹敵する刑罰 - 強制収容所行きとか) に処す、なんてことになれば死刑の濫用もいいところ。でも、それと殺人事件やテロ事件を一緒くたにするのは大間違いでは ? 死刑制度そのものというよりも、死刑をどう運用するかが問題なのであって。
それに、「どうみても死刑にするのが不釣り合いな犯罪」まで死刑にしようと思ったら刑法の修正が必要なのだから、それを阻止するのは立法府たる国会と、そこにいる議員の仕事。いいかえれば、国会議員がまともな判断力を持って仕事をしていれば、たとえば「スピード違反で死刑」「政府の政策に反対するだけで死刑」なんてことにはなり得ないのだから。
逆にいえば、そういう死刑の濫用を阻止することこそが「被告人の人権」に適うのであって、罪の重さに関係なく無条件に死刑を阻止すればいい、というのは違うと思うのだけれど。「死刑の濫用を阻止したいから死刑制度そのものに反対」という主張をする人もいるようだけれど、それは「憲法改正に反対だから、憲法改正の前提となる国民投票法に反対」「戦争に反対だから、戦争を想定する有事立法にも反対」などと同じで、一種の論点ずらしじゃないのかなあ ?
死刑制度に反対するのは個人の思想の自由だけれども、そのためにトンチンカンな行動をとるようになったり、筋違いな批判を展開したりするようになったりすれば、それはむしろ逆効果だし、死刑制度に反対する人全体のイメージダウンになってしまう。
この件に限らず、他の「○○反対運動」にもいえることだけれども、私がいつもいうように、「反対するためなら何をやっても許される」と思っているのだとすれば、それはただの傲慢 & 筋違い & 勘違いでしかないのでは ?
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