Opinion : しょうがないじゃない、負け戦だもの (2007/7/9)
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例の、久間元防衛相の「しょうがない」発言。全文を見てみると、実はそんなにとんでもないことはいっていないことに気付く。全文を引用すると長いので、問題の「しょうがない」を含むパラグラフを引用させていただくと。
本当に原爆が落とされた長崎は、本当に無傷の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなという風に思っているところだ。米国を恨むつもりはない。勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという、そういう思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るということも頭に入れながら考えなければいけないと思った。
(全文は、「iza!」の阿比留記者 blog で)
今回の件に限らず、政治家の失言と称するものにつきもののトリミングにより、「しょうがない」というワンフレーズだけを目立たせてバッシングの対象になってしまった訳だけれど。では、この発言に反発する人は、どういう発言なら許容するのだろう。
原爆投下が非戦闘員の虐殺行為だから、許せないとする主張もある。ただ、それをいうなら東京も、名古屋も、大阪も、その他の多数の都市も、程度の差はあれ焼夷弾空襲で丸焼けにされているわけで、何も広島・長崎だけが "非戦闘員の虐殺行為" のターゲットになったわけではない。
もちろん、焼夷弾と違って核兵器には後遺症の問題があるから、単に一緒くたにするなという主張には理がある。ただ、それと同時に、広島・長崎の悲劇があったからこそ、その後の相互確証破壊と核抑止理論につながったんじゃないの、という主張についても、否定はできないと思う。
「原爆投下という惨事を招く前に、戦争を終わらせることはできなかったのか ?」という主張もありそう。でも、特に負けが込んでいる側で「旗色が悪いみたいだから、ここらでそろそろ止めましょうや」なんていいだして、それが簡単にスラスラと通るもんだろうか。むしろ、降伏を主張した側がその場で暗殺されたりして、さらにグダグダになってもおかしくない。
逆に勝っている側にしても、よほど隔絶した差をつけているのが明白な場合でも、実際に相手が手を上げるまでは、「そろそろ勝ちそうだから、戦後になって叩かれないように、手加減しといた方がいいんじゃないの ?」なんて声が出てくるとは考えにくい。実際、戦争全体、あるいはその中の特定の戦闘をとってみても、「勝ちそうだから手加減した」なんて話はそうそう出てこない。勝てるのは分かっていて、それでも全力を挙げてあらん限りの手を尽くし、最後の最後まで相手をボコ殴りにするのが常。
米内海相が、長崎への原爆投下とソ聯参戦の報を聞いた後で「言葉は不適当だと思うが、原子爆弾やソ連参戦は、ある意味では天佑だ。国内情勢で戦争を止めるということを出さずにすむ」と発言したのは有名な話。負けが込んでいるのが明白なのに、それでも一縷の可能性にすがって戦争継続を頑強に主張する勢力があって、それをどうやって説得しようかというときに超弩級の外圧 (という言葉を使うのも何だけれど) が発生したわけだから、それを「天佑」と形容したのも無理からぬ話じゃなかろうか。
見ようによっては、これだって今回の久間発言と同じように袋叩きに遭いそうなものだけれど、今回の一件に絡めて米内発言を引っ張り出した人、どれくらいいただろう。
そういえば、大石英司さんの blog で何日か前に、こんな記述があった。
所詮、あれは戦争です。しかも負け戦。しょうがなかったことです。恨むべきは、非人道行為に走った勝者ではなく、負け戦をだらだら続けた当時の指導者たちです。ここに視点を置かない限り、国家と民族はいつまでも負け戦を繰り返す羽目になる。
(中略)
私の親や祖母、あるいは祖父のような目に遭った国民は大勢いた。沖縄で広島で東京や名古屋で。あれは総力戦だったのですから。
久間氏にした所で、身内の何人かは原爆で亡くなったことでしょう。それが許せないけれども、しょうがない、という割り切りをせざるを得ないことはある。われわれは韓国人でも中国人でも無い。半世紀以上も昔のことをいつまでもぐだぐだ言っても何の利益も無い。われわれ日本人は、中韓の人々と違って多少忘れっぽい所はあるけれども、「許すべきでない」という感情と「あれは仕方なかったんだ」という割り切りが両立できる美徳を持っている。それは文明人として素晴らしいことです。
(元記事はこちら)
まったくもって同意。
自分の身内でも、戦時中に艦載機から機銃掃射されたとか、敗戦後に外地から引き上げてくる羽目になって辛酸をなめたとかいう類の話はある。しょうがないじゃない。戦争に負けたんだもの。というか、そもそもこちら側から勝算のない戦争を始めてしまったんだもの。
それはもう、どこかで割り切って先に進むしかない。いつになっても蒸し返し続けて「謝罪と賠償を」といいだしたり、それを外交カードのネタに使ったりするようになると、世界のいずこも収拾がつかなくなる。
「勝てば天国、負ければ地獄、知力・体力・時の運」は、何も「アメリカ横断ウルトラクイズ」に限った話ではなくて、戦争だって同じこと。勝てば官軍、負ければ賊軍。だから、勝てる見通しもないのに戦争をおっ始めたこと自体が、最大級の罪。
(ただ、それを勝者の側が勝者の視点で一方的に裁いていいのかというと、それはまた別の問題。とはいえ、そういう事態を阻止できないのは、負ければ賊軍、勝った奴等のシッピン総取りだから)
勝てるつもりで始めた戦争ですら、フタを開けてみたら思い通りに行かないのが常だというのに。ましてや、精神論でもってイチかバチかとばかりに、どうみても勝てそうにない戦争を始めたことこそが根本的な失策。それに起因して発生したさまざまな惨禍の原因は、みんなそこに収斂するのでは ? 「しょうがないじゃない、負け戦だもの」というタイトルを付けた真意は、そういうこと。
それに対して後世の我々がどう向き合うべきかといえば、「許せないことはいろいろあるけれども、無謀な戦を始めてしまった結果なのだから、しょうがない」と割り切った上で、無謀な戦を仕掛けた結果として国土を外敵に蹂躙されるような事態を再発させないようにする。それしかないんじゃないの ?
だから、こちらから国家間の問題解決のために戦争を仕掛けることはしない。でも、仕掛けられたときにはとにかく立つ。手を出したらタダじゃおかないぞ、という姿勢を見せることで紛争を抑止する。
ただしその一方では、軍事力以外のファクターも無視しない。といっても、相手のいうことにひたすらヘーコラして「ここはひとつ穏便に」の精神で行くのではなくて、主張すべきことは主張する。でもって、相手の主張にも耳を傾けた上で、どちらか一方に偏らない中間の落としどころを模索する。100:0 にも 0:100 にもしない。そうやって、さまざまな分野で凸と凹を使い分けつつ、少しでも自国に有利に形に運んでいくのが外交じゃないの ?
そもそも国家間でも個人間でも、利害の対立が発生したときには 100 を主張して 50 を取れれば上出来なのだから、最初から遠慮して 50 (あるいはもっと少ない) しか主張しないなんて愚の骨頂。まず 100 の主張をした上で譲歩もして、半分取れれば上出来、テーブルをひっくり返すとしても相手側にさせること、と。そういう考え方をしないと。
いかんいかん。だんだん、何の話を書いているのか訳が分からなくなってきた。
以前から何回か書いているように、戦争が起これば、どちらの国も加害者になったり被害者になったりするものなんで、一方的に被害者としての立場を主張することも、あるいはその逆も、無理があると思う。それに、被害者としての立場ばかり強調すれば、当然ながら相手側からは反発する声が出てくるもの。そうなると、もう永遠に収拾がつかない。
それに、加害者、あるいは被害者としての立場を蒸し返し続けるだけでなく、都合に合わせて「加害者」と「被害者」を使い分けるような真似をやっていると、「原爆投下は『日本の植民地支配から解放』とのアジアの声が根強い → 原爆資料館展示見直し」なんていう事態になったときに、それこそ整合性がとれなくなって収拾がつかない。
blog のコメント欄でも書いたことだけれど、今回の件に関して久間元防衛相が責められるべきは、発言の内容そのものではなく「こういう発言をしたら、どういう事態を招くか」という面の読みが甘かった、いわば脇の甘さの方。「先にぶち切れてちゃぶ台をひっくり返した方が負け」の世界で、わざわざ自らが仕える内閣と国家の足を引っ張るような結果を引き起こしてしまったわけだから、その責任をとらされるのは、それこそ「しょうがない」話。
マスコミも野党も、本来の仕事はそっちのけで (?) 「失言探し」と「首取りゲーム」に血道を上げるのは、何も今に始まった話じゃないのだから、突っ込まれるチャンスを作ってしまった責任は否定できないのでは。
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