Opinion : 生贄を求める社会 (2007/9/17)
 

以前、JR 西日本の福知山線脱線事故が発生した後のマスコミ報道について、「マスコミが JR 西日本相手に日勤教育をやっている」と書いた。その後も別の記事で、「報道サド」なんて言葉まで使ったことがある。

最近だと、年金がらみの問題や、閣僚の政治資金をめぐる問題。もちろん不正はよろしくないけれども、それでも程度ってモノがある。他の話をそっちのけで政治資金がらみの不整合ばかりを鵜の目鷹の目ニャンコの目で探し回るのは、ちと常軌を逸していないかと思うわけで。

この件に限らず、何かキャッチーなネタがあると、これでもかこれでもかと、同種の話題、関連する話題をほじくり出してくるのは、よくある話。

たとえば、福知山線脱線事故の後で「○○線でオーバーラン」なんてことがいちいちニュースになったけれども、今ではニュースになりはしない。福知山線脱線事故の前も後も、停止位置を読み誤ってオーバーランする事態はときどき発生しているけれど、それがニュース種になるかどうかは状況次第。たまたまニュースネタにされてしまった列車の運転士にとっては、まったくもって気の毒としかいいようがないと思う。

それは、閣僚の政治資金をめぐる問題でも同じこと。いちいち個別の事例を挙げ始めるとキリがないからこれぐらいにしておくけれど、「大きなニュースがあったときだけ、平素は見過ごされているような些細な話までほじくり出される」という指摘はしておきたい。


そういえば、Bombardier 社製の旅客機がいろいろトラブルを起こした後で「航空ファン」誌に、マスコミ報道のあり方について鍛冶壮一氏が突っ込みを入れた話が載っていた。以下、冒頭は鍛冶氏の発言。

「あの飛行機は欠陥機だから飛行停止にして、他の機種に決めろという "決め手" は風評でしょう」
「どういう意味ですか ?」と不思議そうに聞くから、「マスコミですよ、マスコミが、いっせいに、欠陥機だと宣伝を続ければ、そうなるかもしれない」
(「航空ファン」2007 年 6 月号、「"胴体着陸" と風評」より引用)

つまり、鍛冶氏はこの会話で、マスコミが「○○は危ない危ない」と騒ぎ立てることで、当該機種を使えなくするような "世論" を作り上げているのだ、と指摘している。まったくもって同意。

そういえば、福知山線脱線事故でも、軽量ステンレス車体やボルスタレス台車を槍玉に挙げようとした向きがあった。三菱自動車の不祥事が露見した後で「三菱車炎上」というニュースばかりが報じられたこともあった。こうした事例から見ても、「些細な話までほじくり出して繰り返し報じる」「それによって世論を動かそうとする」という話には説得力がある。

この手のメンタリティを突き詰めると、「メディアは常に、生贄を求めている」ということになるんじゃないかと考えた。何か事故やその他の失態をやった企業、個人、自動車や列車の車種、飛行機の機種、はては国家やその他の組織まで。そして、その生贄をクソミソに叩き続けて、たとえば「社長辞任」みたいな形で首を取ることができると、満足して去っていく。そして次の生贄を求める。

安倍政権でいろいろ問題が露見したのは事実なれど、それに対する報道姿勢にも、似たものを感じる。ひとつ不祥事が発覚すると、それが過去に見過ごされてきたモノか、そもそも安倍政権の責任範囲に属するモノなのかは無視して、関連する話題を次々につつきだしてきては叩きまくる。その後で世論調査をやり、「安倍政権の支持率下降、ほげほげ %」と報道する。そして「安倍辞めろ」ムードを演出する。さらに始末が悪いことに、いざ辞めるとなると「無責任だ」といって、また叩く。自作自炎というか、なんというか。

社会保険庁の不祥事でも、かつての国鉄の赤字でも、企業の不祥事でも、今の責任者に原因がある場合と、そうでない場合がある。でも、そこまでいちいち考慮に入れないで、何でも今の責任者が悪いことにして叩きまくる。そして、責任者の首を取ればすべてが解決、といわんばかりの態度で、満足して去っていく。アフター・フィールド・マウンテン。

こんな調子では、トラブルが多いからというのでヤギ 2 匹を生贄に捧げて「安全祈願」をやったとかいう、ネパール航空のことを笑えないと思うよ ?


もっとも、マスコミばかりを悪者にするのはフェアとはいえない部分もある。ぶっちゃけると、マスコミというのは新聞や雑誌が売れる、あるいは番組の視聴率が上がるような方向で動くモノだから、今のやり方が売れ行きや視聴率を押し上げる方向に働く (少なくとも、業界関係者はそう考えている)。それであれば、読者や視聴者にも責任の一端があることになる。つまり、マスコミだけじゃなくて、世論といわれているものもやはり、「生贄を求めている」と。

となると、「知る権利」と称するものの実態は、「生贄を叩く権利」なんてことになりかねない。うーん、それってどうなんだろう。

実際、市井のブロガーなんかでも、やはり特定の国家、企業やその他の組織、個人、あるいは製品を批判… というより口汚く罵倒し続けている人が、ちょいちょいいる。こうなってくるともう、ナチのユダヤ人狩りや、その他の民族浄化を笑えない。
この手の極端な事例とは対象が違うだけで、「○○を除けば問題は解決する」「○○を辞めさせれば問題は解決する」という短絡思考、あるいはそれにつながりかねない風潮が蔓延しているのは同じだと感じられてならない。こうした風潮は、その「○○」に対抗する勢力に対する盲信にもつながって、これまたよろしくない。

特に、経済状況がよくないとか、あるいは社会不安があるとかいう閉塞状況では、問題を解決しようとして「生贄探し」に出る人、それを利用して世論をお望みの方向に誘導しようとする人が出るのは、よくある話。

現実には、こんな複雑怪奇な世の中だから、何かひとつを除くだけで、あるいは対抗勢力と交代させるだけで問題がパパッと解決するなんてことは、まずない。物事を善悪に単純二分して、快刀乱麻を断つようにすれば解決する、なんていうのは時代劇や戦隊ものヒーロー番組の話。現実には、そんなやり方で解決できることなんてない。

だから、「債務免除」とか「援助庁の設立」とかいった NGO 好みの話ばかりを表に出して、それで貧困問題が解決するといわんばかりのキャンペーンを張ったホワイトバンドは、そういう意味でも罪深い。

生贄を捧げて、それで万事解決するような世の中だったら、どんなにか簡単だろうと思うけれど。でも、不可能なことを願ってみても仕方ない。

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