Opinion : 原理原則と空気とアドボカシーと (2007/10/8)
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自分は PC 関連の解説書や雑誌記事などを書く商売をしているけれども、この手の原稿には、大別すると 2 種類のスタイルがあると思う。
ひとつは、主として初心者向けの記事・書籍でよくみられるスタイルで、ひたすら操作手順を並べるもの。この場合、スクリーンショットも 1 ステップごとに用意して、読者が操作した内容を逐一、トレースできるようになっている。もうひとつは、操作手順についても書くけれども、それと平行して背景にある原理・原則についても解説するもので、どちらかというと中・上級者向けに多いスタイル。
もちろん、誰もが最初は初心者だから前者のスタイルから入ることが多いと思うけれど、そこからスキルを上げていけるか、万年初心者で終わってしまうかは、表面的な操作手順だけでなく、背景にある原理・原則まで理解できているかどうかによるんじゃないかと思う。
たとえば、メーラでメールサーバなどの設定を行う場合。メールアドレス、表示名、POP サーバ、SMTP サーバ、POP サーバ用のアカウントとパスワード、といったあたりを登録すればいい。それぞれの項目がどういう意味を持っているのかが分かっていれば、使うメーラが変わっても対応できる。でも、単に画面例に合わせて「ここにこれを入力する」とだけやっていると、項目ごとの意味が分からないから、メーラが変わったりメールサーバが変わったりすると、それだけで大混乱になる。
つまり、どういう理由でどういう設定を行っているのかを理解できていないと、ちょっと状況が変わった途端に訳が分からなくなってしまい、そこで進歩が止まる。
おそらく他所の世界でも、原理・原則が分かっているかどうかは重要な分岐点になると思う。
一例を挙げると、しつこいけれどホワイトバンド。貧困問題が生じる構図に関する説明を後回し、あるいは猛烈に端折った上で「意思表示のためにホワイトバンドを買ってください」とやってしまったのは、貧困問題の解決を訴えるはずのキャンペーンを中国製イカリング販売キャンペーンに変質させてしまったことに匹敵する、重大な問題点。
多分、あのキャンペーンだけ見ていると「先進諸国が発展途上国を債務でがんじがらめにして搾取していてかわいそう。だから、債務免除すれば貧困問題は解決して助かるよ」と思い込んでしまうかもしれない。でも、借金を返せないというのはそれなりの理由があってそうなるわけだから、仮に現時点での債務を棒引きしても、根本的な問題を改めなければ同じことの繰り返しになる。たとえばジンバブエの無茶苦茶なインフレなんか、債務云々とは別の問題だろうに。
背景事情に関する詳しい説明が足りない状態で「募金ではどうにもならないので、アドボカシーによって債務免除を」とキャンペーンしたことの罪は大きい。しかも、債務免除しろということは早い話が「国を挙げて募金しろ」といっているわけで、本質的なところは何も変わっていない。そこのところを隠蔽したキャンペーンだった点も大問題。って、過去に何度も書いていることだけれど。
エコバッグ、あるいはマイ箸みたいなキャンペーンも同じ。使い捨てを止めて再利用することでゴミを減らそうという趣旨は理解できるし、それをキャンペーンするのは結構なこと。でも、それをやることによってどういう現象が発生して、その結果としてどういう効果につながるか、まで筋道立てて啓蒙していかないと、表面的な行動が流行として使い捨てられただけで終わりかねない。
実際、この手の話が盛り上がると、そこに参入して商売を始める人、それに乗せられるが出てくるのはお約束。
Mi-24 攻撃ヘリの行進ハインドマーチのエコバッグ騒動なんか見ていると、そもそも何のためのエコバッグなのかという話はそっちのけで、ブランドものエコバッグを手に入れることに関心が集まってしまっており、本来の趣旨が怪しくなっている。マイ箸にしても、まかり間違えば「マイ箸を売るキャンペーン」に変質して、そのために結構な資源の消費が発生して訳が分からないことになる可能性だって、あるかもしれない。
こうやって、問題の本質や背景が分からないままに表面的な話だけが一人歩きするだけでも、十分に問題。さらに、その一人歩きが大きなムーブメントとやらに発展してしまい、"空気" を作り出して逆らいにくい状況を作るとか、さらにそれを利用したアドボカシー活動によって政府の政策を動かすなんてことになると、もう大問題。
アドボカシーが一律に悪いとはいわない。しかし、ちゃんと分かっている人が適切な提言をしていくアドボカシーならいいけれど、一過性の流行に終わるムーブメント、あるいはよく分からないで大間違いな提言を大々的に仕掛ける、という事態になると笑い事じゃ済まない。事と次第によっては、そういう状況を悪用する輩が発生しないとも限らないから。
そもそも、よくよく考えてみると、肝心のアドボカシーそのものからして「海外ではアドボカシーが盛んだが、日本では云々」という程度の文脈でしか語られておらず、なぜアドボカシーが必要なのか、アドボカシーで何が (解決できるのか | 解決できないのか)、アドボカシーに問題はないのか、あるとしたらどう対処すべきなのか、といった話までは出てこない。
こんな調子でアドボカシーという言葉だけ一人歩きさせて有り難がるのは、ハインドマーチのエコバッグを欲しがるのと同レベルなんじゃなかろうか。
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しかも、正解がはっきりしていて誰が見ても理解できる問題ならともかく、世の中には正解がない、あるいは正解が変わる可能性がある問題もいろいろある。歴史がらみの話題なんかは典型例で、それまで定説とされてきたものが、ある日突然 "新事実" によってひっくり返されることが起きる世界。そこで、詳しいデータの検証や分析をすっ飛ばして「これまでは○○といわれていたのだから、それを△△に改めるなんて許せない」とヒステリーを起こされたのではかなわない。
沖縄の集団自決問題にしても、単純に肯定する人、単純に否定する人、資料を積み上げて検証する人、といろいろな立ち位置がある。そういったものを無視して「軍の命令により強制的な自決があったのだ」という話を否定しづらい "空気" を作り出すのって、いいことなんだろうか。重要なのは「何があったかを検証すること」であって、「過去の言説を維持し続けること」ではないはずなのだけれど。検証した結果として過去の言説を維持するなら、それはいいんだから。
サイパンのバンザイクリフの例、あるいは捕虜になるのを拒否した日本兵の話などを併せて考えると、「鬼畜米英」というキャンペーン、あるいは交戦規則やジュネーブ条約の規定に関する周知徹底を怠り、「敵に捕まってはならない」という話だけを一人歩きさせた "空気" があり、それがあまたの悲劇につながったのだと思う。そうした "空気" の一人歩きと、(ベクトルが違うとはいえ) 現在のさまざまな "空気" と、何が違うんだろう。
実際、「(安倍首相は) 空気が読めない」「KY だ」とかいう、いささか品位に欠ける記事を書いた新聞まであった。そうやってマスコミが "空気" を作り出したことが、たとえば三国同盟参加に見られるような誤謬の一因になったんじゃなかったのか ?
ましてや、そのノリでアドボカシーなんかやられて国の政策を動かす羽目になったら、もう手に負えない。しかし現実問題として、いちいち詳しいデータの検証や分析を万人にやらせることができるかというと難しいから、誰かが巧妙に煽れば、それだけで話がおかしな方に行きかねない。「オシャレな雰囲気」とか「巧妙な宣伝キャンペーン」によって作り出された "空気" によるアドボカシーって、ちと怖すぎないか。杞憂で済めばいいけれど。
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