Opinion : "証言" の重み (2007/11/12)
 

前にも、どこかで書いたような気がする話だけれど…
学生の頃、たまたま広尾ガーデンヒルズの中をトコトコ歩いていたら、「強盗事件がありました。情報求む」とかいう趣旨の看板が立っていた。

それで「へー、そんなことがあったのか、物騒だなあ」と思いながら歩いていたら、前方から「いかにも刑事」という雰囲気の 2 人組。近くまで来たら呼び止められて、「実は強盗事件があったんですが、何か知りませんか」と聞き込みに遭ってしまった。そんなこといわれても、こちらはただの通りすがりで何も知らないから、そう説明して、学生証だか免許証だかを出して身元を示して、それで放免してもらった。

後にも先にも、リアルの聞き込み調査に遭遇したのはこれだけ。


事件が発生したときの聞き込み調査でも、事故が発生したときの目撃者捜しでも、「証言」というのはそれなりに大事にされる。だからこそ、裁判の現場に証人を呼んで、「偽証しません」と宣誓させた上で証言させたりもする。

実際、たとえば航空機事故の原因調査で、目撃者証言が大変役に立った事例もある (例 : 1966 年の BOAC 機墜落事故)。ただ、その一方では「証言なんていうのは、そもそもアテにならないものだ」といって、目撃者証言をゴッソリ切り捨てた事故調査の事例もある。

注意しないといけないのは、証言者に悪意も作為もない場合でも、証言の内容には「事実」と「推定」が混ざる可能性があるということじゃないだろうか。

たとえば、飛んでいる飛行機が何か事故を起こしたときに「パッと白煙が上がった」とする。そこまでは誰が見ても見間違えにくいところだけれど、問題は「白煙が上がる」シチュエーションがいろいろあること。普通、飛行機が飛んでいて白煙が上がったら「火災」または「爆発」だと思うけれど、実は燃料投棄でも白煙をひいているように見える。だから、「白煙が上がりました」までなら「事実」の可能性が高いけれども、「火災が発生して白煙が上がりました」となると「推定」が混ざっているかも知れない。

では、「事実」と「推定」あるいは「記憶」の区別はどうやってつけたらいいかというと、何かしらの客観的な指標、あるいは証言以外の物証との突き合わせということになるんだと思う。航空事故の例でいうと、「飛行機がビックリするぐらい低空を飛んでいきました」だけでは高度の推定はできないけれども、周囲の建物や地勢と比較して「この辺を飛んでいきました」ということであれば、目撃者の立ち位置と突き合わせて高度やコースの推定ができるかも知れない。

つまりは、ものすごく月並みだけれども、目撃証言はあくまで材料のひとつ。だから、それ以外の材料とも突き合わせる必要があるし、目撃証言もできるだけ多く集めて照合する方がいいということ。


なんでこんなことを書きたくなったかというと、例の沖縄の「集団自決」の件。事実がどうだったかについてはモメている最中だから言及は避けるけれども、事実関係の突き合わせや定義が曖昧になっている状態のままで「集団自決は軍命令によるものだ」「いや違う」と議論がグダグダになっているのは、どんなもんなんだろうと。

まず、現場にいた住民からすれば、目の前にいた軍人が何をいったかというのが問題で、これが第一の論点。ただ、そこで「軍命令」という言葉の定義が関わってくるんじゃなかろうか。

つまり、(仮に現場の軍人による命令があったのだとしても) それが当事者による独断専行なのか、上の方からの命令によるものなのか。後者だとしたら、中隊・大隊・聯隊・師団、あるいは第 32 軍のうちのどこからか、はたまたその上の大本営レベルからのものなのか。といったところまでは、現地に居合わせた住民には知る術もない。実のところ、どこのレベルから命令が出たら「軍命令」とするのか、という議論だって必要なんじゃなかろうか。
(しつこいけれども、これはあくまで仮定の話なので、「いった vs いわない」論議に巻き込まないでね)

それを知るには、具体的な命令書があったかどうかを調べないといけないわけだけれど、そもそもそれが残っているかどうか。それに、書面じゃなくて口頭の指令だったら、証拠なんて残ってないだろ、という話にもなる。ただ、そういったところの話を「地元住民の証言」と並べて検証する姿勢は必要なはず。それを徹底的にやって、「軍命令」という曖昧な言葉の定義付けをきちんとした時点で初めて、「軍命令による集団自決の有無」を論じられるんじゃないかと。

それを抜きにして「地元住民の証言」だけを絶対不可侵の存在として扱う議論をする人がいたら、それはいくらなんでも違うと思うし、ましてや「軍命令の存在を否定するなんて怪しからん」といって集会を開いたり、各方面に圧力をかけたりするのは、「事実を追究する姿勢」としてはどうかと。

いつぞやの事故調査みたいに、証言なんてアテにならないものだ、なんていわない。ただ、証言だけでなく、他のデータも可能な限り集めて突き合わせることこそが「事実を追求する姿勢」ってものであって、沖縄の件に限ったことではないけれども「証言がありました。だからそれが絶対正しい」というだけでは、「事実を追求する姿勢」とはいえないんじゃないかなあと。

もちろん、負け戦でグダグダになっている時期の話だし、敗戦後に書類を焼いちゃって資料がなくなりました、という可能性だってある。だから、当事者の証言と突き合わせるべきデータがないかも知れない。それならそれで書きようがあるので、「○○であった」と断言するのではなく「○○とする証言もある」という書き方にする手だってあるわけで。


特に歴史が絡む話では、証言だけに頼って話を組み立てると、後になって意外なところから物証が出てきて大ドンデン返し、なんてことになるかもしれない。だからこそ、目撃者証言、当事者証言というのは、過大評価も過小評価もしてはいけないんじゃないかなあ、と思う次第。

そういえば、1972 年の日航ニューデリー空港墜落事故の時だったか。事故の前だったか後だったかに、別の便のクルーによる「着陸誘導用の電波機器に異常があった」という証言が出てきてモメて、結局は事実関係を確定できずに有耶無耶、なんてことがあった。

電波機器は気象による影響を受ける可能性があるから、ある時点でおかしかったとしても、後で確認したら異常なし、なんてことも考えられるかもしれない。そうなると、物証で裏をとろうとしても難しくなる。こういう厄介な事例もあるという一例。

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