Opinion : 信じる者は救われる ? (2007/11/26)
 

「信じる者は救われる」なんてことをいうけれど、それで何もかも救われてれば世話はないわけで。

しまった、1 行で終わってしまった。

ホリエモン時代、ライブドアがイケイケドンドンだった頃だったか、「信者と書いて儲けると読む」なんてことをいう人がいて、「うまいことをいうなあ」と感心してしまった。当時の、まさに信者とでもいうべき株主の鼻息の荒さたるや、それはもうすさまじいモノがあったけれど、今、どうしているのかは知らない。

問題は、冷静な判断を行うべき場面に宗教的な信念が入り込んでしまったこと、なんだと思う。


そもそも宗教って何よ、と思ったので、Microsoft Bookshelf に訊いてみた。いわく。

心の空洞を医 (イヤ) すものとして、必要な時、常に頼れる絶対者を求める根源的・精神的な営み。また、その必要性を求めることの意義を説く教え。

Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

ふむふむ。「常に頼れる絶対者」というところで納得。
基本的に、宗教では教祖様が絶対的存在で、その教祖様が唱える教義もまた、絶対的存在になる。だから、教祖様や教義に異を唱えることは許されない。ヘタすると破門される。

その教祖様や教義がまっとうで、公序良俗から極端に逸脱していなければ、大して問題にはならないけれども、実際にはそうならなかった事例がたくさんある。
その極めつけがオウム真理教といえる。オウム真理教の場合、宗教組織がテロ組織に変質していったけれども、逆にテロ組織がテロを正当化するための方便として、宗教を都合よく利用する場合もある。どちらにしても、「教祖様は絶対」「教義は絶対」という特質と極端な尖鋭化が結びつくと、ロクなことにならない。

冒頭で書いた「信者と書いて儲けると読む」株主の事例みたいに、ビジネスとして冷静に判断すべき局面で宗教的熱狂が入り込むのも、これまた問題。それがいい方に回っていればともかく、悪い方に回り始めるとブレーキが効かなくなるから。強烈な個性を持った創業者、あるいは中興の祖がいる会社で、そういった人物が教祖様みたいな扱いになる事例が間々あるけれども、それも同じ。独裁者が自分を神格化する事例が多いのも、また似たり寄ったり。

宗教的熱狂や教祖化の何がいけないかといえば、教祖様や教義が絶対的存在になってしまって、なかなか否定や諫言ができなくなること。相手が人でもモノでも組織でも、ファン心理の行き過ぎにも似た部分があると思う。偏愛の度が過ぎて、ネガティブな話を一切受け入れられなくなってしまうような精神的遮断機、という意味で。

それがさらに暴走すると、教祖様でも教義でも偏愛の対象でも何でも、それに対してネガティブな物言いをする人に対する攻撃、といった形に発展することがある。こうなるともう、冷静な判断も何もあったもんじゃない。

宗教の世界で往々にして、異教徒に対する排撃が激化して、宗教対立から戦争に発展する事例があるのと同じ。実際、「うちの教義を信じない者は地獄に堕ちる」的な物言いをする宗教って少なくないわけで。
そして、それを戦争やテロ行為に利用する知恵者 (アホともいう) が出てくるのも、これまたよくあるパターン。結果として、人々が救いを求める対象のはずの宗教が、多数の血を流す原因になってしまう。不幸だ。

本来なら宗教的なモノが入り込むべきではない、政治やビジネスなどの世界でも、しばしば似たようなことが起こる。人の価値観はさまざまだから、ある事象に対して賛成する人も反対する人もいるのは仕方ないけれど、そこに宗教的なモノが入り込むと、上で書いたように「異教徒に対する排撃」「宗教対立」みたいな事態につながり、理詰めで説得しようとしても受け入れなくなる。

実際、特定の企業や製品に対する「信者」と化している人がさまざまな分野で見受けられる。それが「熱心なファン」程度なら何も目くじら立てることはないけれど、度が過ぎて「競合他社・競合製品の無条件排撃」「批判的物言いに対する無条件の拒否反応」となってくると、むしろ害毒の方が多くなってくる。そして、そうした態度は往々にして、却って企業や製品の足を引っ張ることになりがち。

どこの誰で何のこととはいわないけれど、宗教化するべきでない対象について宗教化してしまい、「神が宿っている」とかいって絶対不可侵の存在にしてしまっている人って、いるよね ?


人が何かを信じる、あるいは何かにすがるのは当然のことで、別に否定するべきことではないけれども、「果たしてこれが宗教的な接し方に合うものなのか ?」と冷静に確認することが必要なのかも。なんてことを考えてみた。

でも、そんな冷静な判断ができる人なら、宗教と化して暴走する可能性は、はなから少ないはず。冷静な判断ができなくなってるから暴走する。そして、反対されるとますます内向きに凝り固まって精神的遮断機の中に入り込んでしまい、さらには自分のことを「迫害に対して雄々しく抵抗する殉教者」か何かだと思い込んでしまう事例もある様子。

これって、人間の業ってやつなんだろうか。だとしたら悲しい。

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