Opinion : 冷凍餃子事件・雑感 (2008/2/11)
 

例の中国製冷凍餃子騒動について報じたテレビ番組で、「便利だからと冷凍食品を使う浮かれた日本人の生活を見直せ」とか「冷凍食品なんて使って楽してないで、おかあさんは手作りしないと」とかなんとかいう発言があったと聞いた。うちにはテレビがないので、又聞きになってしまうのだけれど。

なんですかそれは。

本来、「出来合いの冷凍食品などを使うかどうか」と「食の安全」は別次元の問題。手作りしたところで、「安いから」といって出所が怪しげな原材料を使えば、やはり食の安全が脅かされるのは同じだと思うのだけれど。

といったところで、子供の頃に妹と、餃子を作るのを手伝ったことがあったのを思い出した。ただしうちの場合、用意するのは「具」だけで、「皮」は既製品を使っていた。なにせ 4 人家族の分だし、子供の頃は食べ盛りだから量がいる。だから、具を用意して包むだけでも結構な手間がかかった記憶がある。

だけど、「手作りしないと」というニュースキャスター氏の発言を真に受けるならば、皮まで自前で作らないと許してもらえないのかも知れない。となると、突き詰めると皮の原材料になる小麦粉 (のベースである小麦) の製造過程まで追いかけないと食の安全は確保できないわけで、そりゃ家庭の主婦や主夫には荷が重すぎるだろうと。

こうした「手作り礼賛」の風潮について、「これは家事にかかる時間と手間を増やして女性の社会進出を妨げようとする、保守派ひみつ結社の陰謀である !」と主張するフェミニストの人、いないんだろうか (マテ)

と、それは冗談だけれど。
これも先週の記事と同じデンで、本来は別個のハズの問題を強引に結びつけて、(意図的なのかどうかはともかくとして) 論点を逸らしてしまっている一例なのかなと。


今回は「手作りなら安全」という意味不明な出方をしたけれど、食い物・料理の世界では基本的に「手作り > 機械による大量生産」「自然のモノ > 人工的なモノ」といった類の公式が流布している傾向があると思われる。例の「遺伝子組み換え大豆」をめぐる騒動にも、似たものを感じるけれど。

そりゃ確かにチクロみたいな例もあるから、人工的なモノでも問題ない、とはいいきれない。でも、自然のモノにだって、毒キノコみたいに食べると生死に関わるものがある。自然のモノだから何でも安全、って話じゃないと思う。要は知識と管理の問題。

「手作り礼賛論」の場合、おそらく、「手間をかけるのは愛情の表れである」という考え方があるんだと思う。そりゃまあ、バレンタインデーの本命チョコなら、その考え方をストレートに適用してしまっても問題ないだろう。しかし、一般的な家庭の食卓においては、かけられる手間やコストの問題とできあがりを天秤にかけて、手作りするか、既製品で済ませるかというトレードオフの問題になっているんじゃないのかと。

現実問題として、独り者にとって手料理というのは案外と負荷がかかる。少量だけ作るのはあまり合理的ではないし、自分みたいに小食の人間にとっては尚更。気合を入れて大量に料理を作ってしまったら、同じモノを 3 日ぐらい続けて喰う羽目になる。それもどうかと思うから、うちでは既製品も存分に活用させてもらっている。メシだけは、胚芽米を常用しているとか、好みの炊き加減があるからとかいう理由で、うちで炊くようにしているけれど。

あと、外食する場合でも、たとえばファミレスなんかで「それなりの価格でそれなりの内容のものを」食べることができるのは、セントラルキッチン方式を導入する等、さまざまな合理化施策による部分が少なくないはず。すべての店舗で個別に素材から手作りしていたら、同じ仕上がりでもコスト増は免れ得ないのでは ? となれば、合理化できるところは合理化するという考えにも理はあるわけで。

そういう事情をすっ飛ばして、単純に「食の安全のためには手作りを」という話に持って行くあたり、当節のニュースキャスターってのは不見識というか、表面的な正義を振りかざすのが好きというか。それだから、テレビ (またはマスコミ) の評判が悪くなるんじゃないのかと。

だいたい、テレビ局だって番組制作を下請に回している場合が多いのであって、それって「自家製・手作りの番組」とはいえないんじゃないのかと。自前で取材する代わりに通信社や海外ソースの記事で済ませている新聞記事、「関係者によると」とかいう怪しげなソースで怪しげな記事を垂れ流している夕刊紙、自前の専門家がいないもんだから、何かあると大学教授などに喋らせて済ませているニュース番組、新聞記事をネタにして済ませている朝のニュース番組。

それらが一概に悪いとはいわない。テレビ局だって新聞社だって、手持ちのリソースには限りがあるし、かけられるコストにだって限度はあるのだから。だから、オフショア化・外注化を全面的に否定するのはどうかと思うけれども。ただしそれならそれで、自分達がそんな調子なのに、家庭の主婦には手作りを押しつけるのって、どうなんだろう。


本当に「安全」を啓蒙したいのであれば、まず「安いものには安いなりの理由がある」という、あたりまえの原理に立ち返ることが必要なんじゃないかと思う。

何も食い物の話に限ったことじゃなくて、工業製品の生産拠点やソフトウェアの開発など、さまざまな分野でオフショア化が進んでいる。顧客が「1 円でも安く」と求めるからそうするんだ、というのは正論なれど、安さばかりを追求して失うものだってあるはず。我々消費者の側にも、「良いものにはしかるべき対価を支払う」という意識が要るんじゃなかろうか。

だから今後は、工業製品でも農産物でもその他の食い物でも各種のサービスでも、「多少高くても、きちんと作られた安心できるモノを」という風潮が出てくるかもしれない。手間をかければコストが上がるのは、(程度問題とはいえ) 致し方ない部分があるから。そうなると、「高いモノ」と「安いモノ」の二極分化が進む可能性が出てくる。

そうなった場合、たとえば食品の世界で「貧乏人は怪しい食い物しか食べられなくなって、命を落とすリスクを負えというのか。これは新たな格差社会だ」とかなんとかいうアルファブロガー (笑) が出現する事態はおおいに考えられる。しかし、くどいけれども、これだって冒頭に挙げた「次元が異なる問題の混同」。格差社会をどう解決するかは、食い物の安全性とは別次元の話じゃないかと。

おっと。ともあれ今回の騒動、「むやみに安くしようとすれば、入れ替わりに失うモノがあるかも知れない」という当然の原理を、再確認するきっかけになるんじゃなかろうか。これって、「増税反対」のくせに、何かというと「国が国が」と (面倒をみさせたがる | 負担させたがる) 人や政党がいるのと似た部分があるかも。

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