Opinion : 負けるが勝ち ? (2008/3/3)
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例の冷凍餃子事件を巡って、中国側は「私はやってない、潔白だ」と言い張っているけれども、これはまあ予想の範囲内。一方、それに対する日本政府の対応ぶりが、どうも弱腰ではないか、と批判する向きがある。
確かに、BSE 騒動のときにアメリカ側に対して、執拗に「全頭検査」を言い張ったのと同じ国の対応とは思えない。と、それは正しいのだけれど、「ここで頭を下げさせることだけが勝利といえるのかどうか ?」と問題提起してみたくなった次第。
「どちらの言い分が正しいか」と議論になったときに、一般論とすれば「私が間違ってました」あるいは「私が悪うございました」といって頭を下げた側が負け、頭を下げさせた側が勝ち、ということになる。ただ、今回のような事例の場合、中国側が今みたいな態度を続けて「勝ち」を手に入れたとしても、それが長期的な「勝ち」につながるのかどうか。
ああいう政治体制の国だから、「党のやることに間違いなどあってはならぬ」となりそうだなあ、という想像はつく。ここで非を認めることにでもなれば、対外的に、いやそれ以上に国内向けに、党の威信が保たれない。だから、死んでも非を認めるわけにはいかないだろうと思う。
もっとも、もっと統制の行き届いた国であれば、対外的にはとりあえず頭を下げておいて、内向きには全然違う内容の報道を流しておく、というやり方もあり得るけれど、さすがに中国でもそれは難しそう。となれば、今みたいな対応しか取れない。どうしても辻褄が合わなくなれば、「反政府活動分子による仕業だ」とやって個人のせいにした上で、銃殺刑にして家族に弾代を請求するか、あるいは「歴史問題」を持ち出してグジャグジャにするか。
ただ、内向きのメンツの問題だけ考えればそれで間違いはないけれども、第三者から見れば明らかに「痛い」態度をとり続けると、諸外国からの目線は当然ながら厳しくなってくる。たとえば食品安全の問題であれば、中国製の食品に対する目線が厳しくなって、輸入を禁止する国が出る、あるいは輸入しても買い手がつかなくなって自然と輸入しなくなる、なんて事態も考えられる。
それって、長期的には大損失じゃなかろうか。いま、非を認めることで失うものよりも、非を認めなかったせいで失うものの方がずっと多かった、なんてことにもなりかねないし、国家的威信にも響く。そのうち、食品のみならず各種の製品で「中国産は嫌だ」という風潮が広まれば、ますますダメージが大きくなる。
多分、中国から輸出できる製品で最後まで残るのは「兵器」じゃなかろうか。とりあえず安いし、カネか天然資源さえ持っていれば、相手かまわず売ってくれる。これは大きい。どこかの国みたいに「議会が禁止しているので売れません」なんてことはいわないだろうし。
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そういう見地からすると、これは自社製品にバグやセキュリティ ホールが見つかったときの、ソフトウェア ベンダの対応に通じるものがあるかも。「いや、うちの製品には何も問題なんてありません」と、どこかの国の情報相みたいなことをいい続けていると、そっちの方が顧客からの信頼をなくしかねない。それと一緒。
つまり、「負けるが勝ち」、いやむしろ「勝つのが負け」というケースもあり得るんじゃないのかなあ、というわけ。
それとは少し違う種類の話だけれども、第一ラウンドで「負け」た際に、負けた原因に対して真摯に向き合って教訓を取り入れた側が、次のラウンドで大逆転のどんでん返し、なんてことは、ビジネスの世界でも戦史の世界でも、よくある。もちろん、負けた原因に正しく対応すれば、という条件付きなので、先週に書いたように精神論に押し込めて逃げたり、個人の責任にして済ませてしまったときには、その後も負け続け、なんてことになりそう。
「失敗してみないと、どうすれば失敗するのか分からない。そっちの方がむしろ怖ろしい」というのは私の持論。まさにそのデンで、負けてみないと、どうやったら負けるのか分からない。ビジネスでも戦争でも、負けたときにどう対処するかがその後の行く末を左右する、といっても過言じゃないように思える。
逆に、勝ったからといって「結果オーライ」ですべて問題なかったと思ってしまうと、後で足元をすくわれかねない。柳の下にドジョウが二匹いると思って同じような作戦を繰り返したら、二度目には手の内を読まれていて散々な目に遭った、なんて話はたくさんある。トム・クランシーの小説「大戦勃発」みたいに、まず相手を調子づかせてのぼせ上がってもらい、いきなりドカンとひっくり返すパターンにも通じるものがありそう。
そういう意味では、戦争に勝っている国、勝っていると思われている国よりも、苦戦していると思われている国について、今後の動静に注目してみる方がいいのかも。ビジネスなんかの世界でも同じかな。
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