Opinion : 限りあるからこそ大切にする (2008/5/19)
 

先週の金曜日に、'07-'08 シーズンの滑り納め (多分) をしてきた。

10 月にスキーシーズンをキックオフしたときには、来るべきシーズンに対する希望に充ち満ちていて、12-2 月ぐらいはもう無我夢中で、3-4 月ぐらいになると「そろそろ終わりかあ…」という気分になり、5 月ぐらいになると、滑れりゃ何でもいい、といって名残を惜しむかのように出動するのが毎年のパターン。

それでも最近はコブ斜面を少し滑れるようになってきたから、春には春なりの楽しみができてきたような。


じゃあ、1 年間を通じてスキーができたら幸せなのか… と考えると、必ずしもそうとはいえないと思う。そもそも、四季がはっきりしている日本の自然は大好きなのであって、それがなくなってしまったら悲しいものがある。それに、始まりと終わりがあるからこそ、滑れる時期が貴重なものになるのも事実。

それに、もしも 1 年中滑れたら仕事にならない
というのは冗談半分、本気半分だけれども、1 年のうち 7 ヶ月しかないスキーシーズン (←普通の人は 1 年のうち 3 ヶ月程度だ。すでに、7 ヶ月という時点で普通じゃないのは自覚している) だからこそ、それを大事に、無駄にしないように過ごしたいと思う。もしも通年でスキーができたら、却って "雪上に立つことができる時間" を大切にしなくなるんじゃなかろうか。

何もウィンタースポーツに限った話じゃなくて、限りがあるからこそ大切にしなきゃと思うのは、他の分野でもよくある話。第 1 次石油ショックで、石油が無限でもなければ安い状態が続くものでもないと思い知らされたからこそ、省エネ技術を開発する、あるいは低燃費を心がける、といった行為への動機付けになったのは典型例。ガソリンが無尽蔵に安く手に入ると思ったら、誰も大切にしようなんて思わない。

ひょっとすると、人の生死だって同じかも知れない。そりゃもちろん、家族・友人・知人と死別するのはとても悲しいことで、それを否定はしない。けれども、その悲しさを知っていて、かつ自分の人生にもいつか終わりが来ると分かっているからこそ、今の生活を大切にしなければと思うのでは。まして自分の場合、「ひょっとしてこのまま昇天か ?」なんて経験をしているだけに、なおのこと。

もしも "永遠の生命" なんてものが存在してしまったら、同じような考え方ができるかどうか。ヘタすると、永遠だからということに胡座をかいて、逆に人命を大切にしなくなる人だって出てきてしまうかもしれない。

いきなり話は飛ぶけれども、赤字ローカル線の廃止問題が露見すると、急に廃止反対をいいだす人が出てくるのも、似たような背景によるものかも知れない。廃止するとかいう話が出ないうちは、放っておいても永遠に走り続けてくれるものだと思っているから大事にしないし、意識的に乗ろうとも思わない。ところが、なくなるかもしれないということになると、急に「それは困る」という話になる。

近鉄バファローズの身売りというか合併というか、あのときの騒動にも似たものを感じた。そういえば、最近はスキー場の閉鎖や身売りの話があちこちで出ているけれども、これも同じかも。


もちろん、ここまで書いてきたことは一般論だから、中には「○○は永遠に続くとは限らないぞ」という危機感を常に持っている人もいるかも知れない。でも、たいていの場合、それは少数派じゃなかろうか。どちらかといえば、「今日あるものは明日もある」と思っている人の方が多数派なのでは。

怖いかもと思うのは、実際に「○○が永遠でもなければ、常に手の届くところにあるものでもない」という事実を突きつけられたときに、常日頃から危機感を持っている人よりも、「今日あるものは明日もある」という漠然とした安心感に安住してしまっている人の方が、より過敏に、過激に反応するんじゃないかなあということ。

最近、バターの値上がりが激しいけれども、それがマスコミで取り上げられるようになった途端に、デパ地下でバターを大量に買い占める人 (1 万円以上も出して買い込んでいく人もいるそうだ)、普段は買わないバターを慌てて買いに走る人がいると聞く。これなんかも、根拠のない安心感に安住していたことの跳ね返り、っていえないだろうか。


あと、「今日あるものは明日もある」という漠然とした安心感が、その安心感の対象になっている物事に対して真剣に向き合うこと、現実的な見方をすることの妨げになり、浮世離れした考え方に走る原因になっている場合があるのかも、なんてことも考えてみた。誰とはいわないけれど、「9 条教」とか「無防備教」の人達のことだ。

え、「私達は平和のことを真剣に考えているからこそ、9 条の護持や無防備運動に真剣に取り組んでいるんだ」って ? 御冗談を。

それならせめて過去の歴史 (20 世紀以降の日本の歴史、ではない) を真剣に検討して、どういったときに戦争が起きたのか、どういったときに戦争を防げたのかを、さまざまな事例について真剣に検討してみるべき。そうすれば、「9 条教」とか「無防備教」みたいな、ノーテンキかつ浮世離れした、お目出度い発想は出てこないと思うのだけれど。

たとえば、過去に無防備宣言を出した事例がどれくらいあって、その背景事情はどんなで、宣言した結果はどうだったのか、って洗いざらいケーススタディした人が、関係者の中にどれくらいいるだろう ?

はっきりいっちゃうと、「今日ある平和は明日もある」と思いこんでいるからこそ、逆に平和というものに対する考え方がずれてしまっているのではないか、ということ。これは、むやみに勇ましいことばかりいう国士様の核武装論や自主防衛論にもいえることだけれど。

こういう、現実離れした平和論、あるいは根拠のない安心感に頭の先までどっぷり浸かっている人ほど、いざ、目の前の平和が失われる (あるいは失われそうになる) と、ヒステリーを起こして反対の方向に突っ走りそうで怖い。

Contents
HOME
Works
Diary
PC Diary
Defence News
Opinion
Ski
About


| 記事一覧に戻る |