Opinion : "レベルが低い記者"って、どんなのだろう (2008/6/2)
|
先日、日経 BP の「IT Pro」に、「IT 分野の記者はレベルが低すぎる」という記事が載った。なんだこりゃと思って見に行ってみたら、記事の書き手と取材対象の距離感の問題について触れていた。
どの分野でも、書き手が対象に感情移入しすぎると、単なる代弁者になる。かといってその反対になれば、ケチを付けるだけの記事になりやすい。ただ、果たしてこれって、書き手と取材対象の距離感の問題だけなのかなあ、なんてことを思った。
以前から何回も書いていることだけれど、世の中、「善玉」と「悪玉」に単純二分して、悪玉を排除すれば問題解決、と単純にいかないことが多い。そんな簡単に話が片付くのは時代劇の話ぐらいのもんで、実際にはさまざまな立場からのさまざまな利害が入り乱れて対立しているのだから、単純二分なんてできない。
さまざまな利害が入り乱れて対立しているというと、トリアージなんか典型例。確かに、医療要員のリソースには限りがあるのだから、災害などで大量の負傷者が発生したときに、助かりそうな人とそうでない人を分ける必要があるのは、理屈としては納得できる。じゃあ、自分の家族・友人・恋人などが「助かりそうにない人」に分類されたときに素直に納得できるかというと、それは大変難しい。
ちょうど、クラスター爆弾規制の問題がメディアを賑わせている。以前にも書いたように、この問題はそもそも、クラスター爆弾は原理的に不発弾が出やすく、しかも母数が多い分だけ不発弾の絶対数が増えてしまう点に原因がある。結果として、不発弾の被害を受ける民間人が出やすいから問題になった。ただ、軍人の立場からすれば、面制圧兵器として頼りになる存在なのも事実で、なかなか都合のいい代替品は存在しない。
だから、以前にこの問題について言及したときには、自爆機能を備えたサブミュニッションに限定して保有を認めてはどうか、と書いた。もちろん自爆機能とて完璧ではないから、中には不発のまま残るものもあるだろう。とはいえ、何もしないよりはいいし、相反する双方の立場からの要求を満たす、最善の落としどころだと思ったから。四進法の意志決定でいうところの、「ノーにして、同時にイエス」というところか。
ところが現実にはどうなったかというと、自爆機能付きというだけでなく、サブミュニッションの重量範囲を限定、搭載数も 10 発未満に制限するなど、さらに踏み込んだ内容になっている。めでたしめでたし、これでクラスター爆弾の不発弾で死傷する民間人も減るだろう… といいたいところだけれど、あいにくとダブリン会議には大物が参加していない。アメリカ、ロシア、中国、北朝鮮、パキスタン、インドなど。
これでは、大手は不参加の状態で、中小の自動車メーカーだけが排ガス規制をやるようなものであり、どれだけ実効性があるか疑わしい。ヘタをすると、真面目に参加してクラスター爆弾を廃棄した国が馬鹿をみて、不参加を決め込んだ国がいい思いをする、なんてことになりかねない。
いきなりゼロにするのではなく、最初のステップとして「自爆機能付き」という制限をかけるほか、使用した場所に関する情報を戦後に提供させる。それが定着したところで、次にもっと制限を厳しくする。といった段階的な措置は取れなかったものか。「自爆機能付きに限る」とするぐらいなら、不参加国の中に「参加していいよ」という国が一つか二つぐらいは出たかもしれないのに。そうなれば、今回の結末よりもよほど効果が上がったんじゃなかろうか。
それに、軍縮条約、あるいは軍備制限条約がそのまま平和につながるとは限らない。ヘタをすると、軍縮条約が回り回って戦争の引き金になることすらある。また、軍備制限条約をこしらえた結果として、却って抜け穴探しに血道を上げてしまい、新手の兵器が登場する原因になることもある。具体例がこれ。
ベルサイユ条約後のドイツが、制限対象に含まれていなかったロケット兵器に関心を強めて、結果的に V2 号ロケットにつながった
同じドイツの話で、民間の旅客機や郵便輸送機だったはずの機体が、いきなり「爆撃機」として空軍の装備に変身した
ワシントン条約で空母などの主力艦を制限したら、日本では空母に変身させることを前提とした潜水母艦や客船を建造した
核弾頭装備の弾道ミサイルに制限をかけたら、アメリカでは盲点を突いて Tomahawk 巡航ミサイルを開発した
探せば、似たような事例はまだいろいろあるだろう。果たして、クラスター爆弾規制で同じようなことが起きないと、誰が保証するのか。
この件で何が問題かというと、クラスター爆弾を「悪玉」に仕立てて (いや、確かに悪玉ではあるが)、それさえ排除すれば問題解決、と性急にコトを運んだ点にあると思われる。この「いちぜろ」な発想、クラスター爆弾規制に限った話じゃなくて、たとえば「米軍がイラクから出て行けば問題解決」とか「イスラエルが消え去ればパレスチナ問題は解決」とかいうのも同根。
ところが冒頭でも書いたように、実際にはそんな単純二分なんてできないことが多い。結果として、悪玉を叩きのめしても問題は解決しない。するとまた、別の悪玉を捜して鵜の目鷹の目、という無限ループになる。
新聞でもテレビでも Web 媒体でも、この手の「いちぜろ」な発想はさまざまな分野で散見される。とりあえず、個人や企業、製品などを「善玉」と「悪玉」に分類して、善玉を一方的に持ち上げて、悪玉を叩きまくる。ときには、まず持ち上げて善玉扱いしておきながら、途中で掌を返して叩きに転じることすらある。
なんにしても、「悪玉さえ消えれば万事解決」的な風潮はある。組織のトップに頭を下げさせて、首を取ると満足して去っていく風潮も、根底は同じかも知れない。問題を解決するのが目的なのか、それとも問題にかこつけて悪玉を叩き、正義の味方気分に浸るのが目的なのか、どっちだ。
特に、記事の書き手 (または、書き手が属する組織) が妙な正義感に燃えてしまい、「○○は何としても叩かねばならぬ」「我々が信じる正義に刃向かうやつは許さん」とった発想に凝り固まってしまうと、実に始末が悪い。実際に問題があるかどうかに関係なく、叩けそうなネタは何でもほじくり出して手段を選ばず叩きまくり、その「悪玉」さえ消えればいいのだといわんばかりのキャンペーンを張る。
そこで、対象との距離感の問題も関わってくる。対象のことを正しく理解していればまだしも、批判すること、叩くこと自体が目的になると、対象から距離を置いた場合には事実誤認に基づいた叩き記事を書くことになるし、対象に接近すれば確証バイアスの罠にひっかかる。
最近では、マスメディアだけじゃなくて、個人が書く blog なんかでも似た場面が見受けられる。対象を叩くことに精を出している割には正しい情報を持っていなくて、そんでもって間違いについて突っ込まれる。すると逆ギレして、「誹謗中傷」とか「荒らし」とかいいだして、コメント削除で鎮火しようとして逆に炎上を招く、なんてパターンもある。
つまり、対象との距離感や理解の問題だけでなく、「いちぜろ」な発想で「善玉 vs 悪玉」の単純二分構図に持ち込み、自らを誤謬なき正義の味方と位置付けて、悪玉叩きさえすればよい、と思うような記者 (あるいはブロガー) が、レベルが低いといわれるんじゃないだろうか ?
待てよ。こういう記事を書くこと自体、単純二分論を悪玉にして、それが消えれば問題解決だとする単純二分論だ、っていわれないだろうか… ああ、もうわけわからん !
|
|