Opinion : 書きたいことを書く vs 書いて欲しいことを書く (2008/9/29)
 

私は物書きを商売にしていて、さらに原稿料にならない文章もいろいろと書き散らしているぐらいだから、基本的に「モノを書く」のは好き。ただし、商売として書くモノと商売抜きで書くモノでは、当然ながらスタンスは違ってくる。その話はまた後で触れるとして。

といったところで、しばらく前に存在を知った、このエントリ。

読書感想文に決して書いてはいけないこと。

「あらすじの哨戒」もとい「あらすじの紹介」が感想文として失格なのは分かるけれども、「自分の内面を書け」とか「本を読むことで人間が変わるという物語を求めている」なんていわれると、個人的には「えー」と思ってしまう。

だってそうでしょう。仮に小学校高学年から高校を出るまで、とすると合計 8 年間。その間、毎年毎年、自分の人間が変わるような本に巡り会うことができたら奇跡。いや、そんな話は不可能だと思う。自分が過去の人生 42 年間で読んだ本の数なんて数えちゃいないけれども、はっきりと自分の内面に影響を及ぼしたといえる本なんて、「トム・クランシー 熱砂の進軍」(の第 4 章) ぐらいしか思いつかない。


そもそも、夏休みの宿題として読書感想文を課すとか、さらに読書感想文のコンクールをやるとかいうのは、どこに目的があるんだろう、と思ってしまう。上にある話が事実だと仮定した場合、優れた感想文とは審査員が求めている「形」に沿った感想文ということで、文章としての品質は後回し、と受け取れてしまう。

となると、読書感想文という課題の目的は、いい文章を書ける人材を育成するとか、あるいは文章を書くのが好きな人を育成する、というのとは全然違うところにあるんじゃなかろうか、という結論になりはしないか。

私みたいな職業物書きの場合、自分が書きたいものだけ書いていればいいというわけではない。スカンクワークスの黄金律じゃないけれども、「おカネを出す人が求めているものを書く」という力量も必要。特に記事体広告なんていうのは、スポンサーが何を書いて欲しいか、あるいは書いて欲しくないかを理解して、忖度した上で書かないと話にならない。

記事体広告でなくても、商業出版物なんかでは、「読者が喜ぶことを書く」というのは重要。特に、熱狂的な "信者" がいる製品をネタにしている雑誌なんかでは、これに気を使わないとえらいことになる。

そういう能力を幼少のうちから涵養するために読書感想文という課題を出す… というのはありそうにない。学校で、職業物書きという、どちらかというとマイノリティな職業に関わる人材ばかり育成するわけにはいかないのだから。

記事体広告の話と同じで、ちょいと目端が利いて空気を読める子供であれば、「こういう文章を書けば (教師 | 審査員) が喜ぶだろうな」というのを予測して、それに合わせた感想文をこしらえることができる。場合によっては、実際には思ってもいないことを書いて提出することだってあり得る。私はへそ曲がりだったから、ネタの選び方でも感想文の内容でも、好き勝手にやっていたけれど。

ただしそうなると、読書感想文コンクールっていったい何なのよ、要するに審査員を喜ばせる優等生的文章をでっち上げるコンクールなんですか、という話になってしまう。それでは、文章を書くのが好きな人材、あるいは分かりやすい文章・筋の通った文章を育成するのは無理っぽい。だから、「文章を書く楽しみを知るために」というわけじゃないんじゃないの、という話になる。


もちろん、世の中には「自分がやりたいこと」ではなくて「相手が求めていること」を提供する能力が求められる場面はたくさんある。商品開発なんて典型例で、開発する側が作りたいものと買い手が求めているものが一致しない、なんて話はザラ。クルマの世界では、好き者が求めているものとフツーのユーザーが求めているものが一致しない、なんて話もザラ。

そういえば、スキー検定とか技術選手権大会とかいうのも、「ジャッジが求めている "良い滑り" に適合する方が良い点が出る」という仕組み。採点競技って、程度の差はあれそういうものかな (その点、タイムという客観的な判断基準しかないレースの方が、分かりやすくて後腐れがないのは確か)。

情報機関や企業の広報担当であれば、仮想敵、あるいはマスコミ関係者がどんな情報を欲しがっているかを把握した上で、それを利用しつつ都合がいい形になるような情報を流す、という能力が必要。一から十まで馬鹿正直に発表すればいいってもんじゃない。それは、不審な潜水艦が領海内に現れた、なんて事案に限らず、何でも同じこと。

政治家の失言問題なんていうのもそうで、過去にさんざん事例は蓄積されているのだから、どういう発言をすれば「失言」扱いされてマスコミや野党が叩きに出るのか、は推測できても不思議ではない。それを承知した上で、自分のいいたいことをいう時と場を選ぶ、あるいは直截的にいう代わりに婉曲的にいう、といった工夫をしてもいいと思うのだけれど。

そんなこんなで、「相手が求めているものを把握して、それに合うものを提供する」という能力自体は必要なのだけれど、果たしてそれと同じことを、実態が「空気読めコンクール」「審査員の好みを読めコンクール」と化しているらしい「読書感想文コンクール」でやる必要があるのかどうかについては、議論の余地がありそう。

え、そういう趣旨でやっているのではない ? でも、実態はそうなっていると思うのだけれどどうよ。もしも、本気で「文章を書く楽しみを知ってもらいたくてやっている」というのであれば、良否を判断する際の基準を根本的に変えて、かつ、良否の判断基準を明示しなければならないと思う。

そこで、たとえば「全米ライフル協会監修・銃の基礎知識」とか「B-29 操縦マニュアル」の読書感想文を書いた子供が現れて、理路整然と正しい日本語で、分かりやすく筋道の通った (日本語として) 良い文章を書いたら… これはもう、喧々囂々・上を下への大騒動で親が学校に呼び出される、ってことになるんだろうなあ、やっぱり。

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