Opinion : "○○オワタ" 論について考えてみた (2009/7/6)
 

よく「○○の時代は終わった。これからは△△だ」とか「○○はもう駄目だ」とかいう類の論調を展開する人がいる。でも、そのうちどれだけが的中したのかなあ、なんてことを、ふと考えた。

特に IT 業界ではその傾向が甚だしくて、何か新しいもの、あるいは目新しさを感じさせるものや概念やサービスが出てくる度に、「○○の時代は終わった。これからは△△だ」という類の論を吹聴して回る人が出てくるもの。という話は以前にも書いた記憶が。
ところが往々にして、その「△△」も何年か経つと同じ目に遭わされる。もっと酷いときには、吹聴された割には全然流行らなくて、何年か経ってから「そんなものもあったねえ (苦笑) 」なんていわれる。

多分、テクノロジーだけじゃなくて、「企業」でも「業界」でも「国家」でも「思想」でも同じで、「もう○○は終わった、滅びるだろう」といわれたのに、後になってもどっこい、生き残っているものは少なくなさそう。


どうしてそんなことになるかといえば、その「○○オワタ論」を妨害するような力が何か働いたから… と思うのは陰謀論者。自分の考えは違っていて、そもそも「○○オワタ論」が間違ってたから、というもの。

どう間違ってるかというと、願望 (反発心) や思い入れが先行した「○○オワタ論」は外れるんじゃないかということ。つまり、自分が利害関係を持っているとか、個人的に強烈な思い入れを感じたとか、とにかく新しいものを売り込み続けなければならない立場に置かれているとか、そういった理由から客観性や冷静さを欠いた状態で「○○オワタ論」を展開するからいけないんじゃないかと。

もうひとつ考えられるのは、以前にも何かで書いたような記憶があるけれども、楽観論を書くより悲観論を書く方が、いろいろな意味で安全パイだから、というもの。悪い予想が外れても、いい予想が外れたときよりは文句をいわれないし、大変だ、大変だ、と騒ぐ方が注目されやすいし。

あと、たまたま某所のコメント欄におけるやりとりの中で出てきたネタが、「日本オワタ論」の濫発。個人的に思ったのは、その中には「自国のことを格好良くいうなんて、国粋主義者みたいで格好悪い」という心情に起因するものが含まれてるんじゃないかなあ、ということ。そういう心情がモノの考え方を反対方向に走らせて、「日本オワタ論」につながってるのかなあと。

実際、マスコミ界を観察していると、一方ではとにかく「日本はダメだ、日本がすること・してきたことはみんな間違ってた」という論を展開している。かと思えば、他方では「日本はすごい」とやっている。どうしてそう、両極端に走りますかねえ。
もっともこれ、過剰な「日本オワタ論」が出てくるもんだから、反発して「日本すごい論」に走っている可能性もあるわけで、そうだとすればどっちもどっち。

対象が何であれ、「○○オワタ」論が盛大に吹聴されたときに、どこからどこまでが冷静にデータを検証した結果の結論で、どこからどこまでが以前からの潜在的反発心に基づく願望混じりなのかを見極めることは、けっこう重要じゃないかと思った。なんにしても、両極端は切り捨てて考えるのが健全かと思う。

そもそも、「○○の時代は終わった」といわれた国や企業で、本当の意味で終了してしまった事例が、どれくらいあるだろう。むしろ、勢力が落ちることがあっても、当事者が必死に努力して、なんとか生き残ってきていることの方が多いんじゃないかと。

多分、それは「日本オワタ論」についても同じ。自国のよくないところ、うまく行っていないところを殊更に取り上げて「日本オワタ論」なんか吹いてみたり、「俺は日本のダメなところを以前から予言していたんだ」とカッカしたりしているヒマがあったら、自分のフィールドで何か努力する方が、よほど世のため・人のためになるのでは。


といったところで、さらに気付いたのは、「○○オワタ」論の方が終わってしまった事例すら存在すること。

たとえば、1960 年代のミサイル万能論や格闘戦不要論。最後の有人戦闘機は最後の有人戦闘機にならず、最後のガンファイターは最後のガンファイターにならなかった。F-22 にだって、パイロットは乗っているし機関砲も付いている。

どんなに技術が進歩しても、まだ Mk.1 アイボールから完全に見えなくなる飛行機はできていない。せいぜい、迷彩塗装によって見えにくくできるだけで。もっとも、そこで逆に「Mk.1 アイボール万能論」を吹聴するのも、これまた大間違いのこんこんちきなんだけれど。

かつてソ聯で、本気で透明素材の飛行機を造ろうとしたらしいけど、これとて骨組みまでは透明にならなかったし、そもそも飛行機としてモノになっていない。

これらは多分、ラジカルかつ "いちぜろ" で物事を考えてしまい、新しいものが出てきたから、もう古いものは不要、とやっちゃった間違いの一例なのかなと。たいていの変化はもっとゆっくり進行するものだし、それも行ったり来たりしながら、だったりするのだけど。

戦車などの登場で陸軍の機械化がいっぺんに進行したけれども、それで馬に乗った騎兵が完全に不要になったかというと、これまた微妙。なるほど、戦車を主体とする機械化部隊に騎兵隊で対抗するのはムチャクチャだけれども、場所と状況と相手によっては、今でも馬やラクダにだって出番はある。これは、維持し続けたというよりも、不正規戦主体の時代になってリバイバルした部類といえるかも。

そういえば、対戦車ミサイルの普及による「戦車終了論」というのもあった。ううむ、軍事の世界の中だけでもいろいろあるものだなあ。
おそらくは他所の業界でも同じで、当事者の努力、テクノロジーの進化、周辺状況の変化といったものが往々にして、「○○オワタ論」を突き崩したり、大きく後退させたりするものなのかもしれない。

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