Opinion : 広義の平和と狭義の平和と (2009/12/14)
 

先日の時事通信で「『正当な戦争』失望と憤り = オバマ氏受賞演説、被爆地に波紋」という記事があって、「なんだかなあ」と思った。勝手に期待しておいて、勝手に「裏切られた」といってるだけじゃないのかなあと。

以前にも同じようなことを書いたかも知れないけれど、そもそも「共和党の George Bush 大統領はアフガニスタンやイラクで戦争を起こした、怪しからん大統領だ」→「大統領選で民主党の Barack Obama 候補が出てきて "Change" を連呼した」と、ここまでは事実なわけだけれど、そこから先で「きっと、自分たちが気に入らなかった部分を "Change" してくれるに違いない」と勝手な期待 (悪くいえば妄想) に発展してしまったのが間違いのもと。

それに、「核のない世界」にしても、アメリカがいきなり手持ちの核兵器を全廃する、とかいう内容ではないわけで、タイトルだけ見て早とちりしたのではないか、と突っ込んでみたくなった。(この話は、今売りの「軍事研究」に載っている小泉悠氏の記事に詳しい)

そもそも現大統領、選挙運動の頃から「イラクよりもアフガニスタンを重視」といっていたわけで、在イラク米軍の撤収も在アフガニスタン米軍の増強も、それをトレースしているだけの話。核兵器にしても、Minuteman III ミサイルの近代化改修は政権交代後も続いている。本人にしてみれば筋を通しているわけで、波紋とか戸惑いとかいわれても困る、それこそ自分の方が戸惑う、というのが正直なところでは。


その「核のない世界」の話にしてもそうだけれど、Obama 大統領 (に限らず、他の常任理事国の首脳陣でも同じ) が考えていることと、「核廃絶」とか「平和」を主張する人の間には、どうも根本的な言葉の定義の食い違いがあるように思える。そこでお約束、Microsoft Bookshelf の登場。

へいわ【平和】1. 心配・もめごとなどが無く、なごやかな状態。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

すでに誰か同じことを書いているかも知れないけれど、ここで「広義の平和」と「狭義の平和」という定義をしてみたいと思う。

広義の平和とは、「戦争状態」の対義語と定義してみたい。つまり、戦争になっていない状態すべて。冷戦だろうが、本当に和やかな状態だろうが、一触即発だろうが、実際に花火が上がっていなければ該当する。

この「広義の平和」の場合、核兵器を抱えた超大国同士が相互確証破壊理論の下で相互抑止を機能させつつ睨み合っていたとしても、実際にミサイルが飛び交わなければ平和ということになる。それは通常戦力による抑止でも同じこと。そこでは、力のバランスが崩れるのがもっともよくない。

もしも、軍事力の負担が大きすぎて国が傾くとか、あるいはリスクが大きすぎるとかいうことであれば、バランスをとりつつ段階的に軍事力を削減する、あるいは信頼醸成措置を促進する、とかいった方法で対応していくことになる。ちょうど、米露両国が核軍縮交渉をやっているように。その場合、一方的にドカンと軍縮するのは、却って力の空白を作ってバランスを崩すのでよろしくない。バランスをとりながら漸進的にやらないと。(もっとも、軍縮交渉には「軍縮に名を借りてライバルの足を引っ張る」というところもある)

それに対して「狭義の平和」とは、単に花火が上がっていないというだけではなく、人と人との争いとか対立とかいったものすら存在しない状態、と定義してみたい。多分、「世界平和」とか「平和主義」とか「非武装中立」とかいったものを訴える側の「平和」は、究極的にはこちらに該当するのではないかと。

確かにこれは理想だけれども、何も国家同士に限らず個人のレベルでも、極端な話、三人寄れば意見や利害の対立は発生する。しかも、その対立をどうやって解決するべきか、という考え方については人それぞれ。誰かが「話し合いで解決を」といっても、他の人が諸手を挙げて乗るかどうかは分からない。おカネの問題でも厄介だけれど、(どこぞでやっている世界遺産の奪い合いみたいに) 名誉とかメンツが絡む問題だと、もっと解決が難しいような気がする。

それを、一足飛びに「核のない世界 (に対する勝手な解釈)」みたいにゼロの状態に持って行こうとする、あるいはそういう状態を期待すると、一方が「広義の平和」、他方が「狭義の平和」を前提にする結果になって、そりゃ話は噛み合わない。


この「狭義の平和」の考え方を敷衍すると、「軍隊があるから戦争が起きる」「武器があるから戦争が起きる」という主張、あるいは「迷彩服で小銃を持ってパレードすることに対する拒否反応」みたいなものが出てくるのは納得できそう。対立、あるいは争いごとの存在そのものを認められないのであれば、それを力ずくで解決する手段・抑止する手段の存在も認められないということじゃないかと。(それってただの思考停止じゃないの ?)

でも、「人と人との利害や意見の対立」が存在しない状態 (みんな仲良く、的な) だけしか認めないということになると、それ自体が異なる意見を持つ人との対立になって、一種の自己矛盾になるのではないかなあと思った。

現実的な落としどころとしては、まずは「広義の平和」の状態だけでも確実なものにすること。そして、双方とも一方的ではなく妥協ができる状態を経て、段階的に緊張を緩和させていく、それしかないと思うのだけれど、どうだろう。核廃絶の前に、まずは拡散防止を有効に機能させること、とやっているのと同じデンで。

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