Opinion : 楽しみながらやれる方がいいんじゃない ? (2011/3/28)
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「節電、節電」といわれる前から、運動不足対策としてエレベーターを使わずに自宅まで階段で上がることが多かったけれど、最近は降りるときにも階段を使うようになった。実をいうと、「上り」より「下り」の方が膝に負担がかかりそうだけれど、気にしないことにする。(これ、山歩きをしたことがある人だと実感できるかも ?)
ただ、これも「節電のため、被災地のため」といってまなじりを決していたら、しんどさが先に立ってしまって長続きしないように思える。「運動不足解消のため」と思ってやる方が、気分的に楽。
似たような話で、「目的地の駅まで行かずに 1 駅手前で下りて、その 1 駅分を歩く」というのもある。まさか、これが地震のときに役立つとは思わなかったけれど。
もちろん、運動不足の解消とか、身体を使った後の心地良い空腹感というのもあるけれど、それだけじゃなくて「知らない街を歩いてみる・観察してみる楽しみ」というのもある。地元ですら、越してきて 10 年経っても通ったことがない道、行ったことがない場所、なんていうのはたくさんあるし。
なにも節電に限らず、他のことでも同じかも知れない。つまり、以前にどこかで書いた「避けることができなければ楽しめ」とか、「個人の利益や楽しみの追求が、結果として社会のためになる」と似たような考え方。得られる結果が同じならば、その過程を楽しめる方が、あるいは何らかの楽しみを見つけながらやる方がいいよね。という話。
そういえば。地震の後で自宅に戻ったら、中身を流出させている書棚がひとつだけあった。それを片付ける際に、単に元通りにするのではなくて、「ちょうどいい機会だから」といって、判型や分野ごとに整理し直してスッキリさせた。実はそれだけでは終わらなくて、中身の配置を見直して重心を下げるというオマケ付き。
まだ完全に納得できるレベルまで片付いたとはいえないものの、「災い転じて福となす」ではあったと思う。それ以外の場所でも、モノが雑多になっている部分を整理したり、不要なモノを洗い出して廃棄処分したり、ということを、地震の後でチョコチョコとやっている今日この頃。
地震の影響というと。北欧トーキョーが地震と計画停電のトバッチリで品数を絞ったみたいで、お気に入りのライ麦食パンが手に入らなくなってしまった。そこで、それを逆手にとってパン屋の新規開拓を始めた、なんていうのもある。これはこれで楽しい。
(なんていっていたら、これを書いた当日からライ麦食パンが復活。でも、面白いからパン屋開拓は続けるつもり)
節電がらみだと。最近、スーパーに買物に行くと、店内やショーケースの照明を落としていたり、店内放送でのべつ幕なし流していた BGM を止めたり、というのが常態化している。そうなってみると、店内が薄暗いのはともかく、BGM を止めて静かにしているのはいいんじゃないか ? と思った。節電騒ぎをきっかけにして、それまで当然だと思っていた物事を見直す一例になるかも。
石油ショックをきっかけにして省エネ技術が進歩したように、こういう外的要因によって否応なしにテクノロジーが発展させられたり、それまで当たり前だと思っていたことの見直しを迫られたりすることって、案外とありそう。
世の中、どうも真面目すぎる人が多いのか、世のため・人のためになる話というと特に、「真剣に気合を入れて、まなじりを決してやらないと白い目で見られる」なんて風潮があるようにも思える。いい加減にやったり、楽しみの追求が先行したりした結果としてアウトプットが足りなくなってしまえば、それは批判されても仕方ない。
でも、結果が同じなら楽しめる方がよくね ? と思う自分は少数派なんだろか。その昔、マイクロソフトの CM にもあったじゃないの。「笑って、お仕事」って。
といっても、ことに仕事の場合、そうそう笑ったり楽しんだりしてばかりはいられないのだけれど。
そういえば、阿川尚之氏が「アメリカが嫌いですか」(新潮文庫) の中でアメリカのチャリティについて書いておられたときに、同じ「寄付金集め」でもエンターテイメント化というかショーアップというか、派手に盛り上げてやっている場合がある、という話を取り上げていた。いかにもアメリカらしい話ではある。
と、これをライブする直前になって気付いたけれど、いわゆる「市民運動家」の人ってまなじりを決していきり立ってばかりいて、それが周囲の人をドン引きさせる結果になっていないんだろうか。
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