Opinion : 安全と安心の狭間 (2011/4/4)
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最近、スーパーの店頭を観察していると、パンや米の供給はまともになってきたようだし、カップ麺などの欠品もひところほど酷くない。トイレットペーパーも店頭在庫が見られるようになった。ところが、数少ない例外で欠品続き・個数制限続きなのがミネラルウォーター。いうまでもなく、例の放射性物質騒ぎのせい。
その前のパニック買い騒ぎにも共通することだけれども、「ああ、これって "安全" と "安心" の違いか」と考えたら納得した。
つまり、"安全" っていうのは過去の経験や実験で得られたデータと数字とロジックの世界で、「○○の量を△△年間続けても健康に影響はありません」とかいう類の話になる。他の分野だと、たとえば「これまでの統計では、飛行機の事故率は自動車より低い」というのも同じ。
ところが "安心" というのは感覚の問題だから、いくら数字の上で安全だと分かっていても、心情的に納得できない場合が出てくる。原子力が絡む問題なんて最たるもので、放射線という形が見えないものが相手、しかも原子炉がらみの物理学をきちんとかじった人は限られている。あと、科学者や技術者は「絶対安全です」ということを口にしたがらないから (そんなことを軽々しく口にする方が怪しい)、そこでハンデを負う。
だから、「目に見えない放射線がジワジワと浸食してくる」という怯えの感覚によって、「○○の量を△△年間続けても健康に影響はありません」というロジックが蹴散らされてしまうのも無理はないところ。しかもさらに、そういう心情につけ込んで「100 年間は人が住めなくなる」「福島第一原発が中性子爆弾に化ける」なんて話を吹聴して煽る困り者が出てくる。
パニック買いの場合、blog のコメント欄で出た話で「店頭からモノが消えるとなると確保しておきたくなるものだし、とりあえず目の前にモノを積んでおくと安心できる」ということで、これもロジックじゃなくて感覚の問題。何をどれだけストックしておけば対応できるか、という計算の問題じゃないことは、あまり非常時に向かないものまで店頭から消えたことで裏付けられているように思える。
飛行機事故の話も似たようなところがあって、統計的な話をすれば飛行機の方が安全だと分かっていても、地に足が着いていないとか、いったん事故が起きると悲惨な映像が大量に出回るとかいう話の方が印象が強い。結果として「飛行機は怖い、危ない」という感覚につながってしまう。ひょっとすると、主翼が空力弾性体でユサユサしているのが怖い、という人もいるかも。
なんにしても、一方が経験やデータやロジックや数字に立脚して "安全" について説明しているのに、それを聞く側が感覚的な "安心" を求めているのでは、話が噛み合うはずがない。そもそもの対立軸が違っているというか、別次元の議論になっているわけだから。
似たような話で、"安全" と "平和" もそう。核兵器の相互確証破壊理論に基づく抑止だろうが通常戦力のバランスによる抑止だろうが、とにかく何らかの形でバランスがとれていて戦争にならなければ、これすなわち安全保証 (security)。もちろん、そうした軍事的手段だけではなくて、政治的・経済的要素なども関わってくるわけだけれど、それでも軍事力というピースは外せないのが現実というもの。
ところが、そうした努力の甲斐あって戦争になっていないのだとしても、感覚的な問題になると話は別。目の前に軍隊が存在して訓練とか演習とかいうことをやっていると、それ自体が "安全" の原動力であることなど忘れてしまい、「戦争につながるムードが感じられる」→「平和っぽくない」という感覚につながるのだろうなあと。その結果として、「軍隊がなければ平和」「基地のない平和な○○」というキャッチフレーズに釣られる。
なるほど、一方が "安全保証" (security) について話しているのに、他方が "平和" (peace) という似て非なる概念を求めていたのでは、話が噛み合うはずがない。
しかも、誰もが武器を捨てて平和になれる状況っていうのは、利益の追求とか対立とかいうものが消え去らなければ実現不可能。それなのに、そういう話はきれいさっぱり忘れ去られて、見た目上の "平和っぽい風景" を求めていれば、なおのこと。
滑稽なのは、その "平和っぽい風景" を実現すべきだと主張している人が往々にして、むやみに攻撃的・排他的な態度をとること。でも、これは対立軸の話とはまた違うので、今回はこれ以上書かない。
ともあれ、なにも原発の話に限らず "安全" と "安心" のギャップをいくらかでも埋めて納得につなげることが、"安全" サイドに求められるのでは、と考えた。
ところが「じゃあ、具体的にどうやって」というところでどん詰まり。野菜の風評被害じゃあるまいし、毎度毎度、総理大臣が何かを食べてみせれば済むというものでもないだろうし。
でも、今回の電力供給不足みたいな形で危機を目の前に突きつけられると、結果的に原発容認に回る人が増えるように思える。「エコ」とか「CO2 排出削減」とか「温暖化対策」という掛け声よりも、今回の電力供給不足の方が、人々を節電に向かわせるために強力な威力を発揮している、ということは実証されてしまったわけだから。拙宅の冷蔵庫リプレース話も含めて (苦笑)
安全保証の問題でも、過去に「テポドン」とか「不審船」とか「尖閣沖の衝突事件」みたいに具体的なイベントが発生することで風向きが変わってきているわけで、これも同じこと。(もっとも、これはこれで「核武装すべき」とかいうところまで話が逆振れする人がいるのが問題だけれど)
となると逆に、感覚の部分につけ込んで自分達の主張を遠そうとする側が、「いま、そこにある危機」によって動かされる世論とのギャップを埋めることができなくてイライラすることになるのかも知れない。
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