Opinion : 起きて欲しくないことは起きると思わないと (2011/5/9)
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事故・災害・戦争・失業・病気などなど、誰しも「起きて欲しくない事象」あるいは「脅威に感じている事象」というのはあるはず。
ふと思い立って、そうした事象に対する向き合い方を「脅威度の評価」と「その後の対応」という観点から分岐させてみた。ただ、「適正な評価」というのはできそうでいて、実はなかなかできないものだし、そもそも何が適正なのかという判断も難しいので、パス。
過大評価
取り得るリスクを評価した上で、対処可能な範囲と対処不可能な範囲に分けて手を打つ
リスク評価の閾値を決められずに対処を投げる
リスク評価の閾値を決められずに、すべてに対処しようとして破綻する
恐怖感の度が過ぎて、逆に脅威要因にすり寄ることで安心感を得ようとする
何も考えられなくなって立ちつくしてしまう
過小評価
リスク評価を間違えた結果として対処も誤り、不必要に被害を広げてしまう
起きて欲しくないことは起きない、といって現実から目を背ける
たとえば自動車保険。もちろん、賠償額の上限は高い方がいいし、付帯特約も多い方が安心感は増す。でも、その分だけ保険料が上がる問題もあるので、自分が支払える保険料の範囲と、その中で必要な賠償額や付帯特約を天秤に掛けて判断するのが普通の対応。たいていの場合、まず対人無制限、次に対物無制限と来て、後は各種の特約をつけたり切ったりするものかなと。
そもそも自動車保険自体、個人でカバーできないものを保険という形で集団対処するものだから、まさに「リスク評価と、対処可能な範囲・不可能な範囲の切り分け対応」そのもの (といっても、実際に事故に遭って保険の世話になった人でもなければ、判断に迷う部分はある)。
ただ、どんな分野でもこういう風に冷静に判断できないのが難しいところ。たとえば地震。
地域によっては、「ここは地震のない地域だから」といって、何も手を打たずに安心しきっている場合がある。その根拠を訊くと「過去に地震が起きたことがないし」という程度のことが多いけれども、その「過去」のスパンは大して長くないし、過去に起きていなければ今後も起きないという保障はないので、実は根拠薄弱。地震以外の災害でも、似たような話はいろいろ。
突発的に「一億総にわか電力評論家状態」の昨今だけれども、これとて事情は似たり寄ったり。しかも、同じ人が原発については「脅威度を大きい方向に評価」(従来の想定レベルを超える災害を前提にするべき) するかと思えば、それに立脚して原発を止めろとなったときに今度は「脅威度を小さい方向に評価」(原発をすべて止めても電力供給能力は十分にある) に転じて、しかも根拠を問われるとあやふやだったり、いささか非現実的な想定を持ち出したりする。
結局のところ、「原発を止めろ」というと「代案を出せ」とか「電力供給能力が不足する」とかいう突っ込みが入るので、仕方なく (?) 原発抜きでも大丈夫、といわざるを得ないのだけれど、問題を過大評価したり過小評価したり、忙しいことだと思う。というか、ちと御都合主義の臭いがしないかと。
浜岡原発の場合、たまたま静岡県は東海大地震の話が延々といわれ続けているから納得させやすそうに見える。でも、日本のどこでも地震のリスクはあるんじゃないか、と突っ込まれたときに「浜岡だけ特別」で押し切れるものかどうか。「浜岡以外は大丈夫」との説明の裏に「起きて欲しくないものは起きない」という心理がないといいきって良いのかどうか。
安全保障問題の場合、心理的要素やイデオロギー的要素の比重が増すので、ますます収拾がつかなくなりやすい。A 国から見た B 国の脅威評価の中で、イデオロギー的シンパシーがあるのとないのとでは、もう脅威評価がまるで違ってしまう。
さらに「とにかく軍事的手段は否定すべき」というバイアスが加わると、ありがちな「戦争になって欲しくない → 戦争が起きるはずがない」という話の持って行き方になる。そこで根拠を問われると逆ギレするのは、これまたよくある話。
特に安全保障問題の場合、シンパシーといった要素が関わってくると、「リスクに対する恐怖感の度が過ぎて、逆に脅威要因にすり寄ることで安心感を得ようとする」という罠があるんじゃないかと思う。つまり、脅威を脅威でないと思い込もうとするための、一種の自己暗示。実際、どことはいわないけれども、仮想敵国だったはずの国に和平仲介の期待を掛けて、盛大に裏切られた事例もある。
「起きて欲しくないことは起きない」は、単なる「根拠なき否定」。それと似ているように見えるけれども、「すり寄り」の場合、根拠を無理やりでっち上げようとする点で違いがある。ただし、自分でコントロールできない領域の話になる事故や災害の場合、この種の対応に至る可能性はなさそうだけれど。
なんていう調子で具体例を挙げ始めるとキリがないので、これぐらいにして。
なんにしても、「起きて欲しくない」「起きないに違いない」と思い込んでいた事態に直面したときの衝撃度は、「起きるかも知れない」と覚悟していた場合に比べると、ずっと大きい。そうなると、もともと可能性から目を逸らしていた分だけ反応がヒステリックになったり、他人に責任転嫁して「どうして対策を講じていなかったのか」と逆ギレしたり、単に呆然と立ちつくしたり、なんてことになりそう。
少なくとも、「起きて欲しくないことは起きない」とか「脅威の対象にすり寄ることで安心感を得ようとする」とかいう現実逃避的な対応を避けるだけでも、いざというときに受けるショックは却って緩和できると思うのだけれど、どんなもんだろう。
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