Opinion : タリルとタリンと結果と過程 (2011/8/22)
 

成果主義がちゃんと機能している会社、あるいはフリーランス稼業をやっていると、「結果」と「過程」の話はつきもの。業績評価、あるいは年収などといった形で「結果」を目の前に突きつけられる。そういう意味では、成果主義が機能している会社でしごかれた人なら、フリーランスになってもやって行けそう。

仕事でも学業でも、結果が出ないことには評価されないのが基本、だと思う。ただし実際には、「結果は出なかったけれども、その過程で努力したところは評価されるべき」といった擁護 (但し書き、あるいは言い訳のことも) が出てくることはある。

もっとも、「過程で努力したのだから、結果が駄目でも放免するべき」なんていいだしたら、それこそ収拾がつかなくなる。だから、結果を評価する際に何らかの±を発生させるための判断材料として、過程における努力の有無を用いるのが現実的なのだろうけれど。

そういう意味では、軍人というのは過酷な稼業。努力しようが何をしようが、防衛あるいは奪取などといった戦略目的を達成できなければ、後世まで指弾されるし、内容次第では各地の軍学校の教材にされるというオマケまでついてくる。いくら「いや、第一線の兵士は勇戦敢闘した」とか「敵軍の方が犠牲者が多かった」といっても、守るよう命じられた場所を守れなかったり、奪取するよう命じられた場所を奪取できなければ評価が下がる。

もっとも、到底実現不可能な命令を与えられたり、さらにその前段階として到底勝ち目のない戦争をおっぱじめたりすることもあるので、そこまで第一線の軍人に責任を押しつけるのは乱暴な話。評価に際して加味すべきはむしろ、そっちの方かも知れない。


なんてことを書き始めたのは、相も変わらず続いている例の論争の絡み。つまり、「電気は足りる足りる」とイラクの空軍基地の名前みたいな単語を連呼している人がいれば、「電気は足りん足りん」とエストニアの都市名みたいな単語を連呼している人もいる。ただしどちらにしても、毎日のように出てくるパーセントの数字 (冒頭の話でいうと、これは「結果」にあたる) だけ見て論じていやしないかなあと。

パーセントというのは供給力に対する需要の比率の話だから、供給力が一定で需要が増えればパーセントの数字が上がる。供給力が減ったとしても需要の方も減れば、パーセントの数字は増えない、ないしは下がる。供給力が増えても需要の方も増えれば、パーセントの数字は下がらない、ないしは上がる。相対的な指標なんだから当たり前。たとえばの話、2,800 万kW/4,000万 kW でも、4,200 万kW/6,000 万 kW でも「70%」に違いはないけれど、絶対的な数字は大違い。

だから、「足りる」にしろ「足りん」にしろ、パーセントの数字だけではなくて、絶対値やその背景まで見た上で議論しないといけないんじゃないかなあと。相対的な指標だけ見ていたのでは、供給力や需要の増減を見落としてしまう。
つまり、電力需要の数字がどういう変動をしているのか、それは前年同期と比べてどうなのか。もしも前年同期と比べて需要が減っているのなら、それはどうしてか。といったところまで視野に入れた上で議論を組み立てないといけないはず。

同じことは供給側にもいえて、供給力の数字が前年同期と比べてどうなのか、原子力発電所を止めさせた分だけ減ったはずの数字が減っていないとすれば、それはなぜなのか。その際に、何か無理していることはないのか。供給力を引き上げるための努力は持続的に実現できるものなのか。といったところまで (以下略)
現に東北電力で、豪雨災害のトバッチリで水力発電所がいくつも使えなくなって状況悪化、なんて事例もある。

節電ひとつとっても、本当に無駄を省くことで実現できた節電だけでなく、無理やり実現している節電、何らかの犠牲を払って実現している節電もあるんじゃないかと書いてみたい。なにも冷房なんかの話に限らず。

先日、東北本線の普通列車に乗っていたら「節電のために車内の照明を消灯しております」とやっていて、それ自体は小田急なんかでもやっているから驚かなかった。でも、列車がトンネルに突入しても (おそらくは車掌がスイッチを入れるのが遅れたせいで) しばらくの間、車内が真っ暗になってしまった。

こうなると笑い事では済まない。もはや「節電努力」というより「節電のための無理」の領域に片足を突っ込みかかっているのではないか。そういう状況をこの先、長期にわたって続けられるもんですかと。

もっとも日本だと、そこで「車輪の回転数や GPS を利用して自車位置を判断して、トンネルに接近すると自動的に室内灯を点けて、トンネルを出ると自動的に消す装置」なんてものを開発してしまうかも知れないけれど。


つまりは、冒頭で書いた「結果」と「過程」の話。「供給力に対する需要の比率に余裕がある」という「パーセントの結果」だけ見ていて、それを実現するための「過程」の部分の無理や犠牲を無視して、それでドヤ顔されても問題なんじゃないのかと突っ込んでみたい。

たまたま身近で書きやすかったから、電力供給の話を「お題」にしたけれども、それ以外の分野でも、結果だけ見て落ち込んだりドヤ顔したりしていると問題じゃないか、という話はいろいろあるように思える。たとえば、通勤電車の混雑率が下がったといって喜んでいたら、実は景気が悪くなったせいだったとか、産業空洞化で雇用が落ち込んだせいだったとかいうことになればシャレにならない。

おそらくこれは、要約すると「結果ばかり見てても過程ばかり見てても駄目よね」という話。最終的に問題になるのは結果であるにしても、それを評価する際に「過程」の話を加味して、考慮に入れないと、結果に基づいて状況判断を行う場面などでトンでもない誤りをやらかす原因になるだろうなぁ、と。

あと、「過程における努力」が正しい方向を向いているかどうか、その努力が持続可能なものなのか持続不可能なものなのか、他にもっとマシな対応策はないか、ということも常に考えないといけないだろうなぁと。

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