Opinion : 制裁と解決と再発防止 (2011/9/19)
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行方不明になっていた JR 北海道の社長が遺体で発見されたとのこと。遺書が残されているという話もあり、283 系炎上事故などの不祥事が影響した可能性が高いと思われる。
283 系の炎上事故については、発生直後に某所からコメントを求められて「まだ原因について発表が何もないのに、無責任なコメントはできない。ただ、設計・製造上の不具合なら導入直後から問題が出ていただろうし、ずいぶんと時間が経ってから問題が出たわけだから、整備に問題があった可能性の方が高いのではないか」という話をした。
ただ、その事故原因の話が本題なのではなくて、書いてみようと思ったのは「責任」の話。
といったところで例によって、Microsoft Bookshelf の新明解国語事典 (三省堂) で「責任」について調べてみると、こうある。
せきにん【責任】
自分の分担として、それだけはしなければならない△任務 (負担)。
不結果・失敗に基づく損失や制裁 (を自分で引き受けること)。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
AOR (Area of Responsibility) なら「1.」に該当するのだろうけれど、事故や不祥事の「責任をとる」といった場合には「2.」か。
ただ、往々にして「制裁」の部分にばかり目が行ってしまう傾向があるように思える。だから、何かというとすぐに「責任者出てこい」といって組織のトップなどを記者会見の現場に引っ張り出して、とりあえず頭を下げさせたり、土下座させたりする。問題は、それで満足してしまっていないか、ということ。
ことに人為的な原因で問題が生じた場合には、責任者が何も反省しないのは問題があるから、もちろん反省してもらわないと困る。けれども、反省しただけ、頭を下げただけでは問題の解決にならないので、同じ問題を繰り返さないように然るべき手を打つこと。それが本来の責任のとり方ではないかと思う。
まして、責任者が自殺したところで、何の解決にもならない。ただしこれは、そうせざるを得ない状況に本人を追い込んでしまう、周囲の風潮にも原因があると思う。つまり、本質的な問題の解決よりも「責任者に頭を下げさせることを筆頭に、社会的制裁を加えること」が先行してしまうことが。
これは福島第一原発の一件にもいえることで、問題の本質的解決よりも「東電憎し」「東電を叩いておけば正義の味方」という風潮の方が先行していないか ? と突っ込んでみたい。正直な話、JR 北海道だけでなく、東電の役員が次々に自殺しやしないかと本気で心配になる。「事故」というのはたいてい、責任者を吊るすことよりもむしろ再発を防ぐことの方が、社会的なメリットは大きいはずなのだけれど。
一般論としては、死んだつもりで批判に耐えて再発防止に努力する、という方が正解なのだろうけれど、問題は「批判」の部分が往々にして暴走すること。また、それを煽って商売のタネにする人もいるし。そこまで行ってしまうと、もはや「批判」の領域じゃない。でも、「制裁」と「解決」と「再発防止」は別の話なのに混同して、「制裁 = 解決 = 再発防止」だと勘違いしている人っているものだし。
死んで解決したつもり、責任をとったつもり (解決させた、責任をとらせた、でも同じ) になるというと、戦時に沈没した広義の軍艦の艦長について「艦と運命を共にしろ」というのも似たところがありそう。「広義の」と書いたのは、「帝国海軍では御紋章が付いていないと "軍艦" ではない」と突っ込む人が出そうだったから (苦笑)
そりゃ確かに、艦の最高責任者は艦長だから、その艦を沈められてしまったことについて責めを負うのは艦長である。ただ、必ずしも本人が怠惰だったり、ドジを踏んだりしたから艦が沈んだ場合だけとは限らないわけで、何でもかんでも「艦が沈んだら艦長も運命を共にせよ」というのが正解なのかどうか。
実のところ、沈没に至った経緯、沈没の原因、今後に同じ事態を再発させないためにはどうすべきか、といった話をきちんとやった上で、「この艦長には、もう大事な艦は任せられない」と思えばクビにするなり左遷するなりして、「不可抗力の部分もあり、艦長自身にはもう一度チャンスをやっても良い」と思えばそうする。そっちの方が筋が通るのではないかと。
沈没した艦の艦長をクビにしたり、左遷したりするのが一律にダメといっているわけではないので、お間違いのなきよう。状況次第で処遇を決めるべきであり、一律に艦と運命を共にさせるのはどうか、という話である。為念。
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責任をとって自らの生命を差し出すというのは、ある種の「美学」としては正しいのかも知れないけれども、「美学」と「本質的な問題解決」を一緒くたにするのは良くない。ましてや、「美学」が「本質的な問題解決」を脇に押しやるのはなお良くない。
だいたい、その「美学」を求める側だって飽きっぽいところがあるのだから、いい加減な話。
たとえば、どこかのエアラインで大事故を起こして多数の犠牲者が出ると、「責任者出てこい」といって社長を記者会見に引っ張り出して頭を下げさせるのはお約束。でも、いつの間にかバッシングの声はフェードアウトするもの。結局のところ、サンドバッグが欲しいだけなんじゃないのかなあと。あと、事故の後はしばらく、飛行機の利用者が減ることもあるけれど、これもいつの間にか元に戻っているのが常。そんなもんである。
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