Opinion : 似て非なるもの "反" と "脱" (2011/11/21)
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もうずいぶんと前の話になるが、NGN (Next Generation Network) が IT 業界で話題になっていたときに、「NGN で "さようなら、マイクロソフト" を始めよう」とかなんとか題した講演をやった、どこかの SIer の人がいたと記憶している。そして、その後にどういうことになったか。いまさら説明するまでもあるまい。
音声通話も含めて IP 網に集約するとか、そこでさまざまなアプリケーションを展開できる環境を整備しようとかいう NGN の考え方そのものは何も間違っていないと思うけれども、それを無理やり「マイクロソフト嫌い」(?) にこじつけるから、おかしなことになってしまう。
という話はあくまでイントロ。要するに何をいいたいのかというと、「反○○」と「脱○○」は似て非なるものである、という話。なにも原発とか核兵器とかいう話に限らず、たいていの分野で適用できるんじゃないかなあと。
確かに、「反」でも「脱」でも「○○」から離れましょうという点では共通しているけれども、そこから先は月とスッポンぐらい違う。どう違うのか。それは、具体的な行状で分かる。
対象が何であれ、「○○」から離れるには、その「○○」が提供している機能などを代替する、別の「△△」が必要になる。そこで問題になるのは、その「△△」の実現可能性であるとか、そのためにかかる費用や人手であるとか、実現にかかるまでの期間であるとか、実現に際して想定されるリスクであるとか、そういう類のもの。
「脱○○」であれば、そういったところでプラスの要因もマイナスの要因も天秤にかけた上で可否を判断する余裕がある。そして、性急に実現できるのか、時間をかけて漸進的に実現していくべきなのかを見極めた上で、代替となる「△△」を実現していける。あるいは、少なくとも実現しようとする。
ところが「反○○」の場合には事情が違っていて、実現可能性も費用もリスクも期間も何もかも無視して、とりあえず代替手段の「△△」を祭り上げる。実際には不可能であってもお構いなしに、今すぐにでも実現可能であるかのように持ち上げて。
もうひとつの特徴は、その過程で情緒的な盛り上げや煽りが多発すること。さらにダメ押しとなる判断要素は、そこで「子供をアピールの道具に使うかどうか」かもしれない。
たとえば冒頭の話。
「Windows ばかりが市場を独占しているのは良くない」という主張自体はかまわない。ところが、代替手段が未成熟なのに、さも成熟しているかのように煽って不便な点を隠蔽したり、「不便でも Windows を止めることに意味がある」なんていってみたり、代替手段にならないものを代替手段として祭り上げたりしていれば、そりゃ誰もついてきませんって。
結局のところ、「反○○」というのは押しなべて、その「○○」に対する憎悪を掻き立てて、「○○」を不浄なものとして排除しよう、というムーブメントそのものが目的。実は、本当に「○○」を代替手段の「△△」に置き換えるつもりがあるのかどうか怪しい。のかもしれない。(すべてがそういえるかどうかは分からないけれども、そういう傾向は強いのではないかと)
そういうことばかりやっていると、むしろ「○○」を「△△」に置き換えようとする際の阻害要因になることの方が多いんじゃないか。と思えてならない。
注意しないといけないのは。これは掲げている看板ではなくて行状の問題だから、「脱○○」を掲げていても、実態は「反○○」かもしれないところ。
そういう意味では、あちこちで問題になっている「被災地の瓦礫受け入れ」なんかも似たところがあるかもしれない。「東北地方太平洋沖地震の被災地から発するものは、すべて原発がらみの御不浄である」といわんばかりの主張をするのは、結局のところ、脱原発でもなんでもなくて、単に「原発という名の御不浄」を遠ざけておきたいというだけの話ではないのかと。
そういう発想の根っこは、「迷彩服を着て行進なんかされると戦争を想起させるムードが漂って怪しからん」というのと似てるんじゃないかなあと。で、そういうことをやっていて、それが原発を別の手段に置き換えたり、世界を平和にしたりするのに、どういう役に立つんだろう ? と。
そういう意味では、いわゆる「反体制運動」も似たところがありそう。「今の体制をつぶすのが目的」だけだと、「今の体制さえつぶせば物事は良くなる」→「つぶしてみたけど変わらないじゃないか」→「グダグダ」というスパイラルに陥るあたりが。
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